
参院選勝利への決意を力強く示す石破茂総裁
自民党総裁の石破茂であります。本日は休日にも関わりませず、全国から党員・党友、同志の皆さま、お出かけを頂きました。心から厚く御礼を申し上げる次第でございます。誠にありがとうございます。また、公明党の斉藤代表、経団連の十倉会長、そして、連合の芳野会長にもお出かけを頂きました。高いところからではございますが、厚く御礼申し上げる次第でございます。ありがとうございます。
公明党さんには本当に辛い時も苦しい時もご一緒頂きました。いい時だけ一緒にいる人たちはいくらでもいるのですが、辛い時、悲しい時、苦しい時。そういう時にそれを分かち合ってくれる。それこそ真の友党であると、私は思っております。「大衆の中に生まれ、大衆の中に入り、そして、大衆の中に死んでいく」。そういうような公明党の精神に私どもはこれからも学んでまいる。強い信頼の下に、この日本の国、誤りなきよう期してまいりたいと思っております。
経済界の皆さま方には物心両面にわたってお支えをいただきました。心から厚く御礼を申し上げます。後程また申し上げる機会があろうかと思いますが、日本の国は今までともすればコストカット型の経済。賃金は上がらない、なかなか下請けの方に十分なお金も払えない。そして、新しいサービス、新しい製品、そういうものに十分なお金を費やしてこなかった。そういうコストカット型の経済から、これからは高付加価値創出型の経済へ変わっていかねばならない。そのために、経団連の皆さま、経済界の皆さま方にお世話さまになることは多々ございます。本日の十倉会長のご来場に心より厚く御礼を申し上げます。誠にありがとうございます。
そして、本当に久方ぶりに日本労働組合総連合から芳野会長にお出かけを頂きました。ありがたいことであります。いろいろとご指摘をいただきました。私どもは全ての労働者が流した汗が報われる。そのような日本を目指してまいりたいと思っております。非正規労働者は労働者の4割、そして、そういう方々の賃金は正規労働者の6割にしか過ぎません。正規労働者のみならず、非正規労働者、そういう方々の賃金を上げ、処遇を改善し、本当に流した汗が報われる。そういう日本国を作っていくために、そして残念ながら男女間の賃金格差はわが国は今なお大きなものがございます。日本国がこれから先成長していくために、賃金を上げ、物価上昇を上回る賃金上昇を実現し、労働者の方々の働き方改革を実現し、全ての人に生きがい、幸せ、安心、それを取り戻していくために、私どもは連合の皆さま方にいろんなお知恵とお力をいただきながら、切磋琢磨し良い日本をつくってまいりたいと思っております。心より本日のご来場に厚く御礼を申し上げます。誠にありがとうございました。
戦後、80年であります。昭和100年であります。阪神・淡路大震災から30年であります。東日本大震災、大津波、原発事故から14年であります。そして、能登半島地震、1年がたちました。私は野党時代、東日本大震災、大津波、原発事故の時に、谷垣総裁、大島幹事長の下で政務調査会長を務めておりました。現場のご理解をいただき、当時の宮城県連幹事長、今の女川町長であります須田さんのお力をいただいて、あの女川の避難所に一晩、ご無理をお願いして泊めていただきました。泊まらなければ分からないと思いました。そこで多くの避難所に避難しておられる方々から「自民党は何をしているんだ」と、強いご叱責をいただきました。「われわれ震災の被害に遭ったものが、なんで国交省に行ったら経産省に行け、経産省に行ったら農水省に行けとそのように言われなければいかんのだ。われわれ陳情するのが仕事ではない。一カ所で全てのそういう問題が処理できる、そういう復興庁のようなものがなぜ作れない」。私どもは本当に申し訳なく思いました。
当時の民主党政権は「そのような復興庁のようなものは要らない。阪神・淡路でも要らなかったのだから、今回も要らない」。そのように言い放ちました。しかし、阪神・淡路はあの神戸という大都市に集中したあの甚大な震災でありました。東日本大震災、大津波は北海道から東京に至るまで、非常に広範で、なおかつ財政力の弱い地域、農山漁村を含み、津波は阪神・淡路には無かった。そして原発事故も無かった。全く違う。阪神・淡路で復興庁を作らなかったから、東日本大震災でも作らない。そういうようなことはない。私どもは野党でしたが、一生懸命法案を書きました。それが今の復興庁につながっております。
明後日は14年を迎えます。あの1周年の時に、恐れ多くも天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、国立劇場で震災1周年の追悼式典が開かれました。岩手の遺族代表の方、宮城の遺族代表の方、福島の遺族代表の方、ごあいさつをなさいました。岩手の遺族の代表の方、「あの震災のほんの少し前にみんなの宝物であった孫の誕生祝をやった。楽しかった、うれしかった。小さいけどささやかだけど、幸せというのはあるのだ。それが全て消えた。あの時に幸せと思ったのは何だったのだろう。この世に神も仏も無いのだろうか」。そういうお話でありました。お二人目は宮城県石巻の女性の方でした。「がれきの山と化した自分の街を見て、地獄はここだと思った」。そういうような話でありました。3人目は福島県の女子中学生の方でありました。「津波が来るぞ、大急ぎで走って逃げた。向こうから車が来て止まって窓が開いた。お父さんだった。『みんな無事か。それは良かった。俺は消防団員だからな。これから現場へ向かうぞ』。お父さんを見たのはそれが最後だった。冷たくなって変わり果ててお父さんは帰ってきた。頑張ったんだね、お父さん。でももう私と遊んでくれないんだね。そう思うと涙が流れて止まらなかった。自衛隊の皆さん、消防の皆さん、警察の皆さん、全国のボランティアの皆さん、本当にありがとう。私たちは強く生きていきます」。私はその遺族代表の皆さま方のお話を聴きながら、わが自民党が野党でいることがこんなにも申し訳のないことなのかと思ったことはございません。私どもは野党の3年3カ月の間、自民党はどうあるべきかということを徹底的に話し合いました。新しい綱領を作りました。わが自民党は勇気を持って真実を語る政党でありたい。わが自民党はあらゆる組織の声に耳を傾け、協議し決断する政党でありたい。わが自民党は政府を謙虚に機能させ、国会を公正に運営する。そういう政党でありたい。そういう誓いの下に、再び国民の皆さま方に、公明党さんと共に、政権を託していただきました。もう一度あの時の謙虚さを取り戻したいと思っています。
国民の皆さま方は確かに政治を信じておられない。そのことを私はひしひしと感じております。国民は政治を信じていない。ではわれわれ政治は国民を信じているだろうか。どうせ分かりはしないとか、そのようなことを思ってはいないだろうか。私たちはもう一度、国民の皆さま、主権者の皆さま方の声に謙虚でありたいと思っています。もう一度あの野党の時の気持ちを取り戻し、勇気と真心を持って真実を語り、あらゆる組織と対話をする。そういう政党であらねばならない。私は自らに対する反省を込めてそのように思っておるところであります。
よく政治家は、今は100年に一度の歴史の転換点だ、そういう話をいたします。100年前に一体何があったのか。1914年から18年まで第一次世界大戦。1917年はロシア革命。1918年から1920年までスペインかぜ。1929年が大恐慌。1939年から45年まで、第二次世界大戦。1945年に広島・長崎に原爆が投下され、戦争は終わりました。それが100年前の出来事であります。われわれはあのような戦争が二度とあってはならないと思っています。パンデミックがあってもならない。そして、経済恐慌があってもならない。そのように思っております。歴史の教訓に学びながら、私どもは平和を実現するために、最大の力を尽くし、そして、パンデミックが起こらないために、日本国がそれにふさわしい責任を果たしてまいりたいと思っております。
令和の御代も7年目になりました。かつて田中角栄先生は、「あの戦争に行ったやつがこの世の中の中心にいる間は、日本は大丈夫だ。しかし、あの戦争に行ったやつがこの国の中心からいなくなったときは怖いのだ。だからよく勉強してもらわねばならんのだ」。そのようにおっしゃっておられました。15歳で太平洋戦争に従軍された方、齢95を迎えられます。ご存命の方、元気な方大勢いらっしゃいますが、その多くがこの国の中心からリタイアをされました。戦後80年であります。開戦時、日本と米国のGDPは8倍違いました。鉄鋼の生産量も8倍違いました。自動車の生産量に至っては100倍違いました。なぜあの戦争にわが国は突っ込んでいったのか。そして、230万人の方々が英霊となられました。そのうちの6割は疫病や餓死で尊い命を落としていかれました。東京大空襲から80年になります。明日は東京大空襲から80年の日であります。10万人の人が命を落としていきました。本当に国民一人一人を守っていく。そういう政治が必要である。私はそのように思っております。なぜ、10万人もの人が命を失っていったのか。シェルターも十分ではなかった。そして、国民は前線で兵隊さんが一生懸命戦っている時に、空襲があったからと言って逃げてはならない。消火の義務が課せられました。大勢の人が死んでいきました。私たちはもう一度、歴史に謙虚に学び、この日本の平和はその尊い犠牲の上にある。そのことに思いを致したいと思っております。
冒頭に震災の話をいたしました。能登半島で今も苦難の中にあられる。そういう方々のことを私たちは忘れてはなりません。そして、大船渡において苦難の中にあられる方々、そういう人たちの思いを決して忘れてはなりません。パネルがあったらばぜひ展示をしていただきたいと思います。避難所の状況というものをパネルにさせていただいております。寒い中で体育館で雑魚寝、そのようなことがあっていいはずはない。このこちらのパネル、避難所の状況、かつてはこのようなことでございました。今は全く違う状況になっている。一人一人の方々の、一つ一つの方々のプライバシーが確保される。そういうテントが速やかに設置をされるようになりました。多くの方の努力によって、このような体制が今、実現しつつあります。プライバシーが確保される、衛生が確保されるテントであり。そして温かい食事であり、そして、身体にいろんな不自由を抱えられた方、あるいはアレルギーをお持ちの方、そういう方々に最大限の配慮が行き届いた。一番苦難の中にある人たちに一番温かい手が差し伸べられなくて、なんでそれが国家なのか。私は思っております。われわれは歴史に学び、そして、一人一人を大切にする。シェルターの整備もそうです。われわれは周りを核兵器を持っている国々に囲まれております。わが国の安全保障環境はかつてなく厳しいのであります。米国との同盟関係をさらに強化することは当然のことであります。それと同時に、何があっても国民は傷つかない。そういうような体制を早急に構築してまいりたい。そのように考えております。
地方創生2.0。もう一度この国を担うのは地方である。東京にも地方はたくさんあります。いつの時代も歴史を変え、時代を変えるのは都の偉い人々ではない。いつの時代も歴史を変え、国を変え、時代を変えるのは地方であり、一人一人の庶民大衆であります。わが自民党は国民一人一人に最も近い政党でありたい。もう一度その原点に立ち返りたいと思っております。高額療養費の問題もそうであります。私たちはもう一度丁寧に、弱い人、苦しい人、辛い人、そういう人たちのお声を聴き、国民に最も近い自民党、それが信頼を回復する唯一の手立てであると私はそのように信じております。
日本の経済が最もピークであったのは1994年でございました。日本は世界のGDPの18%を占めておりました。今や4%を切る、そういう状況でありますが、大勢の方のご努力があって、GDPは600兆円を突破をいたしました。コストをカットする、そういう経済から高付加価値創出型の経済へ、冒頭申し述べたと通りであります。日本にはまだまだポテンシャルが多く残されています。農業であり漁業であり林業でありサービス業であり、中小企業である。その持てる力を最大限に引き出し、人口減少に歯止めをかけ、もう一度日本を素晴らしい国として生まれ変わらせる。それがわが自民党が与えられた使命だと私は信じております。自民党のため、ではありません。わが日本国のために、次の時代のために、そして世界のために、今日はわが自民党を今日まで導いていただいた大勢の先輩が最前列にお座りであります。そういう方の思いを体し、私は皆さまとともに、この自民党が国家に対する使命を、次の時代に対する使命を、必ず果たす。そういう年にいたしてまいりたいと心から願っております。
昭和59年9月のことでした。私は27歳でありました。衆議院選挙に臨むために鳥取へ帰ります。そのことを目白の田中角栄先生のご自宅に行って、暇乞いに上がりました。「お前、よく聞け。お前なんかは単なる政治好きのあんちゃんだ。なんでお前のようなものが自民党から国会議員に出られると思う。それは、お前の父親のおかげで誰でもお前の名前は知っている。そして安心感もある。それだけのことだ。そう言われて悔しかったら今すぐ鳥取へ帰って、戸別訪問3万軒、辻説法5万回。それをやるんだ、わかったか」。そういう風に厳しく叱責をされました。5万4千軒歩いて、中選挙区でございましたが、出た票は5万6534票でありました。そのことを私は一生忘れることはございません。
翌年昭和60年。渡辺美智雄先生の講演を聴く機会がありました。「お前たちは何のために政治家になるのだ。金が欲しいのか。先生、先生と呼ばれたいのか。良い勲章がもらいたいのか。そんな奴は今すぐここから立ち去れ。政治家の仕事はただ一つだ。勇気と真心を持って真実を語る、それしかない。それが出来ないものは今すぐここから立ち去れ」。そう厳しくご指導を受けたことを、私は自分がいつまでたってもその域に達しないという反省とともに、忘れたことはございません。
どうぞ皆さま、もう一度自民党が国家のために、国民のために、そして世界のために、外交であり安全保障であり、経済政策であり社会保障であり、農林水産、教育、自民党こそが国民の最も近いところにいる。自民党こそが国民の怒り、悲しみ、喜び、苦しみ、それを一番知っているのが自民党である。そういう誇りを持って今年に臨んでまいりたいと思っております。どうぞ皆さま、お帰りになられましたら、この後紹介がございます参議院の候補の一人でも多くの方にその名前を知っていただくために、その政策を知っていただくために、ポスターを貼っていただき、5人、10人の小集会を開催していただき、自民党こそが国民に一番近い。そういうことを分かっていただけるそういうご努力をたまわりたい。心からお願いを申し上げます。私も先頭に立ち、都議会議員選挙、参議院選挙、必ず勝ち抜くべくわが身を滅して総力を尽くしてまいります。自民党のためではなく、国家国民のために、次の時代のために、どうぞ同志の皆さま方、結束、団結、行動、心よりお願いしてごあいさつを終わります。どうぞよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。