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メディア短評 日暮高則(アジア問題ジャーナリスト)

79回目の広島・長崎原爆忌を迎えて全国紙が社説 平和希求するも核抑止論の是非では論調分かれる

「核兵器をなくし、平和な社会を」。毎年8月、広島、長崎の原爆忌の季節を迎えると、こういう言葉をよく耳にする。確かに庶民感覚からすれば、何十万人、何百万人を一度に殺傷する大量破壊兵器に忌避感を持つのが当然であろう。ただ、冷静に考えると、この言葉には論理の飛躍があるように思えてならない。核兵器がないだけで平和は保障されない。これまであった戦争のほぼ全てが核でなく通常兵器で行われてきたのだ。
素手の殴り合いはよくある。そこにナイフやピストルを持つ者が現れると、人は生命の危機を感じ、争いをためらう。さらに大砲、爆弾となれば、かなりハードルは高くなる。現在その究極の兵器が核兵器で、相互に持っていれば、報復攻撃を恐れてほとんどが使用できなくなる。米国が広島、長崎で使ったのは、日本側がその武器を保持していない、つまり報復力がないと確信したからだ。第2次世界大戦後、米国以外にもいくつかの国がこの兵器を所有しており、ロシアはウクライナ戦争でも何度も核の脅しをかけたが、使用までに至っていない。
核兵器を持って対峙(たいじ)することは「恐怖の均衡」等とも言われる。だが、残念ながら、現実にこうした"均衡"が大規模な戦争を防いできたことも事実である...

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