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コラム

故議員 町村信孝君に対する追悼演説

伊吹文明元衆議院議長「まっちゃんの掌の温もりは忘れない」

 

(大島理森 衆議院議長)

去る一日逝去されました前議長町村信孝君に対し弔意を表するため、伊吹文明君から発言を求められております。これを許します。伊吹文明君。

 

(伊吹文明 元衆議院議長)

 三十数年にわたり本院議員を務められた前議長町村信孝先生は、去る六月一日、七十歳を一期として天に召されました。ともすれば、目先の問題の処理能力を大切にしがちな現在の政界において、揺るがぬ信念と長期ビジョンを持っていた君には、政界の重鎮としてますますの活躍が期待されていただけに、与野党を問わず多くの人から、君の突然の御逝去に驚きと惜しむ声が相次いだのは、けだし当然のことであります。

 思えば三十数年前、君と一緒に当選し、一貫して同一政党に籍を置き、ともに政治の道を歩んできた私は、君の急逝の知らせを受け、大きな衝撃と深い悲しみを感じたのであります。ましてや、淳子夫人を始め御家族の皆様の御心情は、月並みなお慰めの言葉を超えたところにあると存じます。ここに、私は、同僚の皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、町村前議長をしのび、謹んで哀悼の辞を申し述べたいと存じます。

 

李白の詩、「浮生夢の如し」の感を禁じ得ない。

 君は、昨年の総選挙後、十二月二十四日、この議場において、各党の一致した推薦により、不肖私の後を受け第七十五代本院議長に選出されました。そのとき、この演壇上で君への祝意を述べた私が、今日は同じ場所で惜別の言葉を申し上げることになろうとは、思いも寄らぬ痛恨事であり、唐の詩人李白の詩のように、「浮生夢の如し」の感を禁じ得ません。

 あの日、君が就任の挨拶で、国民の重い信託を受けている議員としての謙虚さ、矜持、品性を大切にと述べられた言葉を、同僚議員一同が心に刻み、主権者である国民のために、政党会派を超え、国民の負託に応えていくことこそ、残された我々の責務であると改めて君に誓うものであります。

 町村信孝先生は、昭和十九年十月十七日、戦火を避けた疎開先の静岡県沼津市で、衆議院議員、北海道知事、自由民主党参議院議員会長を務められた旧内務省の重鎮、父金五先生と二葉様の末っ子の御次男としてお生まれになりました。

 御父君金五先生は、皆さん御承知のとおり、北海道知事を三期十二年にわたり務められ、北海道発展の礎を築かれた、まことに人格識見のすぐれた大先輩でありました。

 君は、こうした御両親の影響と慈愛のもと、少年時代を過ごされ、小学校四年のときに、既に身長百六十センチ、体重六十キロ、相撲大会で優勝するほどの健康優良児に育たれました。東京都立日比谷高等学校では、勉学だけではなくスポーツにも打ち込まれ、ラグビー部のキャプテンとして、全国大会ベスト十六に輝き、「日比谷に町村あり」と言われ、早稲田、慶應からも入学を勧誘されたと伺っております。

 昭和三十八年に東京大学経済部に進学されましたが、卒業前年の大学紛争の嵐の中、ノンセクトのリーダーとして、毅然として正常化を訴え、解決に全力を傾けられました。当時の加藤一郎東大総長をして、町村君がいなければ紛争の円満な解決は困難だったろうとまで言わしめるほどの抜群の統率力は、既にその時点で他を圧していたのであります。

 当時、君は、国家が何をしてくれるかを問うてはならない、あなたたちが自分の国のために何ができるかを問うてほしいと述べた故ケネディ・アメリカ合衆国大統領に深い尊敬の念を抱き、一体自分は日本のために何ができるのかと常に問うていたのでありました。その行き着くところとして、在学中に既にアメリカ留学も経験していた君は、東大卒業後は、国家のために自分の全てをささげようという思いから、父金五先生と同じ官僚の道を選択されることになりました。

 当時の通産省に入省した君は、物価・景気対策、対外援助政策、中小企業対策、コンピューター産業や石油産業の育成などの幅広い分野で活躍され、同時に、国際感覚にさらに磨きをかけられたのであります。昭和五十四年から二年間、ニューヨークに勤務され、当時、日米間の最大の懸案であった自動車輸出自主規制問題を始め、多くの通商摩擦の解決に全力を尽くされました。一週間でニューヨークとワシントンの間を数回往復するなど、君のエネルギッシュな活躍ぶりは、当時通産省内でも話題の的でありました。この通産省勤務時代に、当時通産大臣であった安倍晋太郎先生と、北海道のリーダー格であった中川一郎先生に勧められ、政界入りを決意されたのであります。

最愛の夫人に、三回落選するまではと頼み込む。

 その際、父金五先生からは、本当に政治家なんぞになりたいのか、余り感心しないね、一生涯、官僚として国家国民のために尽くすべきではないのかと強く反対されたそうです。しかし、最愛の淳子夫人にも、三回落選するまではつき合ってくれと頼み込むほどの強い意志のもと、昭和五十八年十二月、第三十七回衆議院総選挙に北海道一区から勇躍立候補され、見事初挑戦で当選をされました。初当選を最も喜んでくれたのは、政界入りに反対をしていた父金五先生その人でありました。父上からは、国会議員にしかできない分野の仕事、外交、防衛、教育、治安に目を向けて勉強したらどうかとの助言を受け、国家の根幹にかかわるこれらの分野の議員活動に励む決意をされ、以後、これらは君のライフワークとなったのであります。

 本院に議席を得られてからの君は、文教、外務はもとより、内閣、安全保障、予算等の各常任委員会、あるいは沖縄北方や教育基本等の特別委員会の委員、理事として、各般にわたり国政に卓越した識見とすぐれた行動力を発揮されました。

 平成八年十一月に厚生委員長に就任された際は、終始毅然として、公平かつ円満な委員会運営に努められました。中でも、懸案であった臓器移植法案について審議促進を主導され、異例の本会議での中間報告を経て法案の成立にこぎつけ、我が国における臓器移植の道を開かれたのであります。

 他方、内閣では、平成九年、第二次橋本改造内閣の文部大臣として初入閣を果たされ、平成十二年十二月には、第二次森改造内閣において初代文部科学大臣に就任をされました。在職中、平成九年に作成した教育改革プログラムを発展させる形で、平成十三年一月に、教育改革の実行計画として二十一世紀教育再生プランをまとめられました。君は、国民の理解を得るため、みずから全国を回り、教育への熱い思いを国民一人一人に直接語りかけられたのであります。

政治理念は、人間性あふれた保守主義。

 君は、教育の基本理念として、先人が築き上げてきた知恵や心根、すなわち日本人の文化を次の世代に正しく継承し、「凜として美しい日本人を育てる」と、みずからの政治理念でもある「人間性あふれた保守主義」を高く掲げられたのであります。外務大臣を務められた平成十六年九月からの第二次小泉改造内閣及び第三次小泉内閣、十九年八月の第一次安倍改造内閣においては、在日米軍の再編問題、国連安保理改革、FTA交渉、対中国ODA削減、日朝正常化交渉など、山積する外交上の課題に対し、国家の威信をかけて全力で臨まれました。

 特に、小泉総理の靖国参拝で悪化した中国及び韓国との関係改善に東奔西走される中で、終始毅然とした態度を貫かれたことは、内外から高く評価されたのでありました。君は、一貫して、「凜として志の高い外交」を目指され、主張すべきは主張することこそ大切だとして、終始、「町村外交の基本は日本の国益にあり」という姿勢を変えることはありませんでした。

 平成十九年九月から翌二十年九月までは、福田内閣の内閣官房長官として、公務員制度改革、国際テロ対策、消費者庁の創設、北朝鮮における拉致問題の解決等に向け尽力をされました。何より、与党内の調整、野党への理解取りつけに奔走され、福田内閣の屋台骨を支えられた君の陰の御努力は、当時、自民党の国会対策委員長であった大島現議長や、自民党幹事長としてともに苦労した私には、今も記憶に新しいところであります。

自由民主党にあっては、幹事長代理、総務局長、税制調査会顧問等の要職を歴任され、党内屈指の政策通として、その手腕を遺憾なく発揮されました。長寿化により増大する社会保障費をにらみつつ、財政を再建し、次世代に対し責任を果たすべく税制改革に努力された君の功績もまた忘れてはならないものでしょう。

 平成二十六年十二月に衆議院議長に就任され、一票の格差問題、定数是正などを協議する衆議院選挙制度に関する調査会に、いたずらに時間をかけず、しかし、拙速な議論をするのではなく、十分な議論の上で速やかに答えを出していただきたいと要請され、その早急な取りまとめに強い意欲を示しておられたのであります。

 また、国会へのテロに対する対策の強化についても目配りをしておられました。その矢先、体調不良を訴えられ、議長を辞任されたのであります。君は、自分の健康のために、いささかでも国会に迷惑をかけてはならないとの、まことに筋を通す君らしい決断ではありましたが、長年の友人としての私には、君の無念さは思いても余りあるものがあります。

 国会は、言うまでもなく、国民から主権を負託された唯一の国家機関であり、それゆえに、憲法は国会を国権の最高機関と定めております。国会の指名を受けた内閣総理大臣のもと、内閣は連帯して国会に責任を負い、予算、法律等は国会の審議、議決を要します。

 君が責任者であり、さきの国会で議決された特定秘密保護法の提出原案は、政府は、国会に情報を提供することができるものとするとなっていました。当時、本院議長を務めていた私は、憲法の法理からも、国会の審議のためにも国会に提出するものとすると修正すべき旨をお願いし、君の同意も得て与野党の共同修正がなされ、円満に現在の法律が誕生したのであります。

 「凜とした」という言葉が好きだった君は、信念の人で、自説を曲げない人でもありましたが、筋の通ったことについては人懐っこい笑顔で相手の意見を受け入れ、決して頑固な人ではありませんでした。

まっちゃんの、掌のぬくもりは忘れない。

 君が議長に就任された後で、自分が議長についてみると、君の言ったとおりにしておいてよかったよと握手を求められたときの、まっちゃんのたなごころのぬくもりを私は今でも忘れることはできません。平成二十年、在職二十五年の栄に浴された君は、その謝辞の中で、昨今の政治状況を、現代の豊かさを維持するためだけに膨大な借金を次の世代にツケ回ししているのではないかと疑問を呈され、我々は終わることのないリレーの走者として、悠久の日本の歴史の中で、前の世代から受け継いだ日本国を少しでも改善し、発展させ、次の時代に手渡していく責務があると語っておられたのであります。

 君の語られた道は、この先もつらく苦しいものでありましょう。しかし、君の愛したラグビーのように、ボールをつなげ、ひたすらに前へ前へと走り続けた君からパスされたボールを、この議場の中の若い同僚の諸君が受け取り、必ずトライに結びつけてくれることを私は信じて疑いません。

 君がふるさと北海道のために心血を注いだ北海道新幹線は、来春までに函館まで開業します。いずれ君の地元札幌まで開通するときには、君の志を継いだ有為な後継者が、君が愛し、そして君を育てた北海道五区で活躍していることでしょう。

 ここに、町村信孝先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのびつつ、心から御冥福をお祈りするとともに、町村先生を今日まで支えてこられた最愛の奥様、二人のお嬢様、かわいいお孫さんなど、御家族の皆様の胸中に思いをいたし、哀悼の意をあらわし、追悼の言葉といたします。

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