憲法改正推進本部 遊説・組織委員会|STUDY 3 自衛隊の違憲論を巡る憲法改正

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平和 衛の憲法論議

STUDY 自衛隊を巡る憲法改正と違憲論 STUDY 自衛隊を巡る憲法改正と違憲論

平和 衛 平和 衛

第3回 自衛隊の海外派遣は必要なのか

2020.8.11

STUDY 3 自衛隊の違憲論を巡る憲法改正

提供:防衛省

■湾岸戦争時の海外派遣を巡る議論

自衛隊が創設された後、東西冷戦の中にあっても、日本は、高度経済成長を続け、1973年・1979年に生じた二度のオイル・ショックを乗り越えました。自らが国外での騒乱に巻き込まれることもなく。しかし、ベルリンの壁が崩壊した頃から、米国・ソ連の二極を中心とした東西体制の下ではあらわにならなかった地域規模での騒乱が、それまで日本の成長を可能にしていた前提を崩し始めます。

1990年、イラクがクウェートに侵入した第一次湾岸戦争です。独立国であるクウェートに、イラクが武力を行使して侵入するあからさまな主権侵害であり、国連憲章上も放ってはおけない事態でした。こうした事態を国際社会が見逃してしまうと、周囲を軍事強国に囲まれている日本にとっても「明日は我が身」の問題になり得ます。

加えて、日本の国民生活にとっても深刻な問題でした。日本は石油のほとんどを中東からの輸入に依存していたからです。クウェートや、同じくペルシャ湾に面するサウジアラビアからの石油が途絶すると、産業活動は言うまでもなく、国民生活も成り立ちません。当時、多くの国民は、それに先立つ二度にわたるオイル・ショックで、「中東の不安定化が自らの日常を脅かす」ことを実感していました。

この時、日本政府がどのような対応をし、自衛隊がどのような役割を果たし、憲法がどのように関連していたのかを振り返ってみましょう。自明なことは日本が一国だけでは解決できないことでした。また、「国際社会の皆さん、主権侵害は許されません。平和裡に話し合いを」と弁説するだけ、それも中東から遠い北東アジアから発するだけでは解決につながらないことでした。 

イラク軍をクウェートから撤退させること、在外邦人の安全を確保すること、壊れた中東を復興すること、ペルシャ湾の平穏を回復して石油の輸送ルートを確保することなど課題は山積でした。解決のための作業を、負担を、物資を、国際連帯で分担して対応する必要がありました。そこで、国連安保理で協議をしつつ、米国が中心になり、この前例のない負担の大きな作戦を組み立て、多くの国がこの作戦への参加を表明しました。

一方、日本政府も、自衛隊の派遣、物資の提供、資金の負担など多角的な役割分担の検討にとりかかりました。中東の安寧、中東原油への高い依存、米国に次ぐ世界第二の経済規模など、日本が相応の大きな貢献をするべきことは国際社会でも多数説となっていたためです。

そこで、戦闘に絡まない支援のために、あるいは混乱した現地のインフラ復旧や人々の生活支援のために、自衛隊を派遣することを可能にする法案(国際連合平和協力法案)を、1990年11月に国会に提案しました。しかしながら、「これは憲法違反の自衛隊の海外派兵を企図したもの」(社会党・池端議員)、「自衛隊の存在自身は憲法違反、認められないと思っております」(共産党・東中議員)などの議論が展開され、廃案となりました。結局、日本の貢献は130億ドルに及ぶ資金拠出と、数億ドル規模の物資協力に終わりました。

■日本と世界のためにペルシャ湾で活躍

しかし、国際社会からの声は”too little, too late”でした。しかも、多国籍軍が数週間のうちにイラク軍をクウェートから駆逐して平穏を取り戻した後、クウェート政府が貢献した諸国の名を記して「各国の皆さん、有難う」という広報をした中に、「日本」の名はありませんでした。

日本国民は大きなショックを受けました。130億ドルの資金拠出は、国民一人当たり100ドルに当たる巨額の貢献であり、そのための増税法案も国会で通していました。これは単に資金負担の問題ではありません。日本国民への評価であり、日本国民の名誉の問題でもありました。

このことをきっかけに「現地へ行って、各国と一緒に汗をかかなければならない」という意識が高まり、翌1991年の春になって、ペルシャ湾に残された機雷を除去するために自衛隊の掃海艇を派遣しました。当時、ペルシャ湾には、イラク軍が撒いた機雷が残っており、いくら戦闘が終わっていても、これらが除去されないとタンカーが安全に航行できない状況にありました。この派遣は国会に報告されましたが、中には以下のような厳しい批判もありました。

「自衛隊は違憲の軍隊であります。いかなる名目や形をとろうと、自衛隊の部隊を海外に派遣することは、憲法の平和原則に反することはもちろん、この自衛隊法にも明白に違反するものです」
(1991年4月衆議院本会議、共産党・東中光雄議員)

「自衛隊の海外派遣など、全く憲法が想定するところではありません。もとより、自衛隊が憲法違反の軍隊であることは明白であります。この憲法違反の自衛隊法すら自衛隊による国際貢献は想定していないことを、防衛庁自身も認めざるを得ませんでした。総理あなたも自衛隊法が自衛隊の海外派遣による国際的役割分担を想定しているとは言えないだろうと思います」
(1991年4月参議院本会議、共産党・吉岡吉典議員)

1991年4月、海上自衛隊の自衛官はペルシャ湾に向かいました。この任務は、間違いが許されない難度の高いものでした。機雷が爆発してしまうと、自衛隊の艦船自体が沈没しかねません。また、機雷が反応しないように、艦船は金属を使っていない木造船、つまり軽量で、安定の確保が容易でない構造にせざるを得ませんでした。しかも、湾岸戦争の間に中東の現場に人材を派遣する貢献をしなかった日本の「挽回戦」という斜に構えた見方もある中で、隊員たちは士気を維持し、間違いなく任務を完遂するという一点に集中して取り組みました。

隊員たちは見事に任務を遂げ、ペルシャ湾で99日間に34発の機雷を除去した海上自衛隊の技量と士気の高さは、国際的に高い評価を得ました。ペルシャ湾におけるタンカー航行の安全を確保することで多くの国に貢献しただけでなく、日本自身にとっての石油供給上の不安も取り除いたのです。

隊員たちの高い技量と士気を支えたものは、一体何だったのでしょうか? このような活躍を踏まえた上でも、自衛隊を憲法違反と捉えるべきでしょうか? こうした曇りをなくすためには、憲法に自衛隊を明記すべきではないでしょうか?次回は、近年における自衛隊の活躍と違憲論、そして国民がどのように感じているのかを、一緒に見ていきましょう。

PROFILE

平和 衛

平和 衛

ヘイワ マモル

自衛隊の憲法問題に長年向き合ってきた研究者。
自衛隊の活動を追いながら、日々、日本の平和と安全を願っている。

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