お隣同士の日本と台湾の間にはどのような歴史があるのでしょうか。
19世紀末、日清戦争終了時に締結された下関条約※で台湾は日本の統治下におかれることになりました。以降50年にわたる統治時代には独立運動も行われ、固有の文化をどうやって守っていくか、台湾の方々がご苦労された時期もあったと思います。
一方で、台湾の近代化に日本人が果たした役割については多くの方が認めてくださっている。それは日本にとってじつにありがたいことだと思っています。
台湾の近代化に日本がどうやって貢献したのですか。
鉄道や港湾、発電所などインフラの建設、衛生環境の改善、農林水産業の振興など数えきれません。その結果、生活水準や教育水準の引き上げにつながったと思います。うれしいのは、そういったインフラ整備が現在の台湾経済を支える一因と評価されていることです。
代表的な人物としては、水利技術者だった八田與一という方が有名です。不毛の地といわれた南部の嘉南平野に、10年かけて当時東洋一の烏山頭ダム(台南市)を建設。大小さまざまな水路をはりめぐらせて15万ヘクタールの土地を肥沃にし、およそ100万人の農家の暮らしを豊かにしたといまでも尊敬されています。
そうした日本人に感謝して銅像を建てたり、絵本にして子どもたちに読んで聞かせてくれたりしているのに、日本人の方がそれを知らない。台湾各地にある日本人と地元の交流の歴史や足跡は、もう一度丁寧に掘り起こさないといけません。
私の祖父(中曽根康弘元首相)は昭和18(1943)年、当時25歳のとき海軍主計大尉として台湾に赴任しました。南部にある高雄警備府に配属になって、いま明徳新村と呼ばれるエリアに1年半住んでいたと聞いています。海軍の将校たちが住むように建てられた日本式家屋は、そのままのかたちで完璧に保管・公開されています。自分の祖父がここに住んでいたんだなと思うと感慨深いものがありますね。
先ほど、赤ん坊の中曽根先生を抱っこする元首相のお写真を拝見したのですが、歴史を感じました(笑)。
僕はすごいオーラを(笑)。ところで、自民党青年局と台湾の関係はどのようなきっかけで生まれたのですか。
昭和42(1967)年に蒋経国さん(のちの台湾総統)が中国青年救国団主任として日本を訪問されたとき、「青年世代同士の交流をしていきましょう」となったと聞いています。当時、自民党の青年局長が海部俊樹元首相、青年部長が小渕恵三元首相で、そこから台湾のカウンターパート(窓口)の役割を果たすようになったようです。以来、お互いの親密な交流が続いています。
私たちは台湾を非常に重視しているんですが、一方で中国との関係もあるから、国と国とで正式に向き合うことが難しい。そのなかで自民党青年局が積み重ねてきた歴史は非常に貴重な財産です。引き続き台湾との窓口としての役割を果たしていきたいと思っています。
※下関条約 日本が清国(現在の中国)に勝利したことにより、明治28(1895)年、山口県の下関において調印された条約。正式名称は日清講和条約。
※この記事は令和2年1月14日、自民党本部にて行われた座談会を抄録としてまとめたものです