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党のあゆみ

第10代 鈴木 善幸

鈴木総裁時代

大平首相急逝のあとをうけて、自由民主党は選挙後ただちに、執行部を中心に後継総裁の選考に着手しました。しかし、衆参両院選挙の圧勝のあとだけに、国民の圧倒的な信頼にこたえるためにも、政治の空白の回避と政局の安定が急務であるという意見が党内の大勢を占め、話し合いによる円満な後継者の選出が適当であるということで党議が固まりました。その結果、昭和五十五年七月十五日、衆参両院議員総会で、西村副総裁の指名をうけて鈴木善幸氏が第十代総裁に選ばれ、新しく鈴木内閣が誕生しました。

鈴木首相は、生粋の党人出身政治家らしく、新内閣の発足に当たり、党内の融和と結束を最重視して、「和の政治」を政治運営の基本姿勢に掲げました。

また政策面では、大平政治を継承して、「政治倫理の確立と行政綱紀の粛正」「財政の再建」「行政改革の断行」「総合安全保障政策の展開」「エネルギー政策の積極的推進」「活力ある高齢化社会の建設」などを重点政策に取り上げ、これらの実行を通じて、「二十一世紀への基盤固め」を行うことを新政権の使命として出発しました。

しかしながら、以後二年三カ月にわたった鈴木内閣時代は、いわゆる八〇年代問題ともいうべき歴史的転換期の困難きわまる諸問題が、内外に相次いで生起した苦難の時期でありました。

すなわち、まず国際的には、ソ連の軍備増強にともなう軍事的脅威の拡大、さらには世界的な経済不況による各国経済の悪化等を背景に、欧米各国の対日要請は、政治、防衛、経済の各要素が複雑にからみあった形で、かつてない高まりを示し、わが国はそのひとつひとつに、誠実かつ着実な対応を迫られたのでした。

また一方、国内に目を転じますと、最も緊急な解決を要する政策課題として、行財政改革の断行という難題に直面していました。八〇年代以降のわが国の将来を展望するとき、経済成長の減速化、資源・エネルギーの制約、高齢化・高学歴化社会への移行、対外通商摩擦の多発と国際社会における役割の増大等が予想されるだけに、行財政の姿をそれにふさわしいものにつくり変えておくことは、緊急かつ不可欠の課題となっていたからでした。とりわけ財政の状況は、景気の低迷が続き、税収の伸びが思うにまかせぬ状態の中で、公債発行残高は累増の一途をたどり、財政の再建は、一刻の猶予も許されぬ急務となっていたのでした。

このため鈴木首相は、施政方針演説その他の場を通じて、内外情勢の厳しさを率直に訴え、「厳しい自制」と「粘り強い努力」を国民に要請する一方、外交面では、西側の一員としての国際的責任の分担と対外通商摩擦の解消、内政面では、二十一世紀を切りひらく行財政改革の断行の二本柱を最緊急の課題として掲げ、自由民主党と一体となり、その達成を目ざして不屈の活躍を続けたのでした。

まず外交面で、鈴木時代を飾ったのは、首相自ら陣頭に立っての華々しい首脳外交の展開でした。五十六年一月のASEAN(東南アジア諸国連合)五カ国歴訪を皮切りに、同年五月の米国、カナダ訪問、同六月の西欧八カ国歴訪、そして一息入れる間もなく翌七月には、カナダのオタワで開かれた先進国首脳会議出席、十月にはメキシコのカンクンで行われた南北サミット列席。明けて五十七年六月には、フランスのベルサイユで開かれた先進国首脳会議、引き続きニューヨークでの第二回国連軍縮特別総会出席、中南米歴訪、九月には中国訪問と、まさに文字どおり東奔西走、めざましい首脳外交を繰りひろげたのです。

これら一連の首脳外交を通じて特記すべきことは、まず第一に、日本外交の基軸である日米関係について、五十六年五月のレーガン米大統領との日米首脳会談で、「日米両国は民主主義および自由という共有する価値の上に築かれている同盟関係にある」ことを確認するとともに、防衛問題における適切な役割分担が望ましいこと等の合意内容を盛った共同声明を発表、よりいっそう緊密な友好親善関係を確立した点です。第二には、二度にわたるサミット出席、西欧八カ国訪問等を通じて、西側諸国は困難な国際情勢下にもかかわらず、「和の精神」をもって団結と協調を強め、国際情勢に対する共通の基本認識と基本戦略で対処する必要がある旨表明したことです。そして第三には、このためわが国は世界経済再活性化のための経済的諸協力、第三世界に対する政府開発援助の五カ年倍増目標の達成等により、国際的な政治・経済的役割を果たしていく旨、はっきりと国際公約した点でした。

これらはいずれも、わが国が「平和国家」としての制約の範囲内で、西側陣営の一員としての国際的責任を進んで果たしていこうという決意を積極的に表明したもので、鈴木首相による首脳外交の輝かしい成果だったといえるでしょう。

とりわけ、国連軍縮特別総会において、現在、世界が国民総生産の六%にのぼる軍事費を支出する一方で、開発途上国では悲惨な飢餓と貧困が絶えない実情を対比しつつ、「軍縮によってつくり出される人的・物的余力を社会不安と貧困の除去に向けるべきだ」と主張した鈴木首相の演説は、各国代表の大きな反響を呼び、演説終了後会場で首相に握手を求める人々の列が、一時会議の進行を中断させたほどで、まさに鈴木首相による首脳外交を飾るハイライトともいうべき光景でした。

さらに鈴木内閣による国際責任分担の柱として、三次にわたる画期的な市場開放政策の推進も見逃すことはできません。これは激化する国際通商摩擦に対処し、調和ある対外経済関係を形成することによって、自由貿易体制のよりいっそうの拡大を図ろうとしたもので、五十六年十二月、まず第一弾として、東京ラウンドの合意に基づく関税の段階的引き下げ措置を、一率に例外なく二年分繰り上げ実施することとし、総計千六百五十三品目、平均一〇・四%の関税を引き下げました。次いで翌五十七年一月には、第二弾として、農産物四十七品目および工業品二十八品目の関税の撤廃ないし引き下げと輸入検査手続きの簡素化、さらに同年五月には、第三弾として、九十六品目の関税撤廃を含む二百十五品目の関税大幅引き下げを断行したのです。これらはいずれも、鈴木首相の強いリーダーシップのもとに実施されたもので、広い国際的視野に立った首相の勇断は、高く評価されるべき決断だったといえるでしょう。

しかしながら、鈴木内閣時代の業績を語るに当たっては、何といっても内政面において、行財政改革に傾けた鈴木首相の情熱と実績をぬきにしては語れません。首相就任以来、「いまや抜本的な行政改革の推進と財政再建の達成なしには、一九八〇年代の行財政運営の基盤を確立することはできない」との信念に燃えていた鈴木首相は、五十六年三月、土光敏夫氏を会長とする臨時行政調査会を設置するとともに、政府・自由民主党行政改革推進本部を発足させ、文字どおり政府・与党一体となって、行財政改革の推進に乗り出したのでした。

以後、臨時行政調査会は、内外情勢の変化に対応した行政の制度および運営のあり方について検討を続け、意見のまとまったものから順次答申(五十八年三月まで五次にわたり答申、鈴木内閣では三次まで)を提出しましたが、鈴木内閣および自由民主党は、そのつど答申の趣旨を最大限に尊重して、着実に実行に移していきました。

すなわち、五十六年七月の財政支出削減と行政合理化に関する第一次答申に対しては、同年秋の第九十五臨時国会で合計三十六本の法律改正を一括して盛りこんだ行政改革関連特例法を制定し、次いで五十七年二月の許認可等の整理合理化に関する第二次答申については、同年春の第九十六通常国会で行政事務簡素合理化法を制定して実行に移すなど、着実に改革の成果をあげたのです。

一方、財政再建に賭けた鈴木首相の努力と熱意もめざましいものでありました。首相は極めて困難な財政運営下にもかかわらず、「増税なき財政再建」「赤字特例公債依存体質からの昭和五十九年度脱却」の二大目標を自らに課し、その達成を目ざして最大限の努力を傾注したのでした。すなわち、まず五十六年度一般会計予算では、赤字特例公債発行額を二兆円減額して、一般歳出の伸び率を四・三%増に引き下げたのに続き、五十七年度一般会計予算でも、前例のないゼロ・シーリング予算を編成して、公債発行額を一兆八千三百億円減額し、一般歳出の伸び率をわずか一・八%増に抑制するという、実に四半世紀ぶりの超緊縮予算を組み、財政再建路線を大きく前進させたのでした。

このような行財政改革に賭けた鈴木首相のあくなき努力は、不幸にして五十六年度の税収が景気の予想外の低迷を反映して当初見積りより六兆一千億円も落ちこんだため、当初予算を二兆一千億円減額した五十七年度補正予算で、三兆九千億円の公債の追加発行を余儀なくされるという不運に見舞われた結果、赤字特例公債依存体質からの五十九年度脱却は事実上不可能となりましたが、それにしても「歳出削減-財政再建」路線を定着させ、五十八年度予算編成における五%のマイナス・シーリングのレールを敷いた功績は、きわめて大きかったといわねばなりません。

このほか、鈴木首相はまた、「金のかからぬ政治」の実現に取り組み、五十七年八月、多年の懸案であった参議院全国区制度を改革して、比例代表制を導入した公職選挙法の改正を断行したことは、わが国選挙史上画期的な出来事でした。

こうして、苦難と試練に満ちた歴史的転換期の国政運営を担い、外交に内政にめざましい成果をあげた鈴木首相でしたが、任期満了を目前にして、党内の一部から総裁予備選挙を実施すべしとの強い主張が出るにおよんで、党内抗争に火がつくことを憂えた首相は、五十七年十月十二日、「新しい指導者の下、人心の一新をはかり、挙党体制を確立し、もってわが党に新たな生命力を与えることが、党総裁としての私のなしうる最後の仕事であると確信するにいたりました」との退陣声明を残して、何の未練も残さず政権の座を去っていきました。この鈴木首相のさわやかな出処進退は、「和の政治」の政治理念と共に、長く人々の記憶に残ることでありましょう。

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