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党のあゆみ

第15代 宮沢 喜一

宮沢総裁時代

平成三年十一月五日、海部内閣の退陣を受けて召集された臨時国会で宮沢喜一自民党総裁が首相に指名され、宮沢内閣が発足しました。マスコミはこの内閣を「保守本流政権の登場」と論評しました。

これに先立ち、十月二十七日に自民党本部八階ホールで行われた自民党総裁選で、宮沢喜一氏は第十五代総裁に選ばれました。選挙は、渡辺美智雄氏、三塚博氏との三つ巴の争いで、宮沢氏二百八十五票、渡辺氏百二十票、三塚氏八十七票という結果でした。宮沢内閣が本格派政権と呼ばれたのは、宮沢首相が早くから総裁候補といわれ、ポスト中曽根政権を争った竹下登前首相、病に倒れて政権への望みを断たれた安倍晋太郎元幹事長の三人の「ニュー・リーダー」の最後の一人だったためです。宮沢首相が政策通として米国をはじめ海外での知名度が高かったのも本格派とされた理由のひとつでした。

折から、不可避となったソ連邦解体など国際情勢は激動の気配が高まる一方、国内はバブル崩壊の兆しを見せはじめた経済状況の下で激化する日米通商摩擦への対応を迫られるなど、日本政治をとりまく環境は極めて厳しいものでした。

発足した宮沢内閣には(1)国連平和維持活動(PKO)協力の推進(2)コメ自由化が焦点の関税・貿易一般協定(GATT)の新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)への対応(3)政治改革 の三つの大きな課題が待ち受けていました。宮沢首相は、党に綿貫民輔幹事長、内閣に渡辺美智雄副総理兼外相、羽田孜蔵相、加藤紘一官房長官という布陣を敷いて、そうした課題に取り組む強い決意を内外に示しました。翌年一月には、金丸信副総裁を新たに党の重鎮として加え、政権基盤をさらに強化、PKO協力法や政治改革をめぐる与野党折衝に備えました。

就任まもなくの十一月八日、宮沢首相は臨時国会で行った初の所信表明で「質の高い生活環境を創造して、所得のみでなく、社会的蓄積や美観など質の面でも真に先進国と誇れるような、活力と潤いに満ちた、ずっしりと手応えのある『生活大国』つくりを進めていきたいと思います」と述べ、「品格ある国・生活大国」の建設を大きな政策目標に掲げました。政治の師匠である池田勇人元首相が敷いた経済成長の路線から、国民生活の充実を重視する方向への転換を宣言したもので、バブル経済崩壊の兆しにおびえる国民の気持ちを反映したものでした。

宮沢内閣が成立を目指してまず取り組んだPKO協力法案は、海部内閣時代に国会に提出され、衆院で継続審議になっていましたが、カンボジアでのPKO活動の必要性が急浮上し、成立が急がれる状況でした。先の湾岸戦争で、多額の資金援助をしながら、「金は出すが人は出さぬ」と米国を中心とする国際世論の非難にあった日本としては、PKO協力法案が汚名返上への第一歩だったのです。

政府・自民党は参院での与野党逆転状況をにらみ、公明、民社両党との三党体制で成立させる方針をとり、両党と折衝した結果、いわゆる「PKO参加五原則」を法案に盛り込みました。(1)紛争当事国間の停戦合意の成立(2)PKO参加に当たっての紛争当事国の同意(3)平和維持軍(PKF)の中立厳守(4)条件が満たされない場合の日本部隊の撤収(5)隊員の生命保護のため必要不可欠な場合の小型武器の使用容認 がそれです。

ところが、公明党は賛成の方針を決めたものの、民社党は「シビリアン・コントロールの確保」などを理由に「PKF参加には国会の承認が必要」として譲らず、宮沢首相が誕生した年の臨時国会では、衆院を通過したものの参院で継続審議となり、決着は翌年の通常国会に持ち越されました。PKO法案をめぐる政府・自民党と公明、民社両党との調整は平成四年一月二十四日に召集された通常国会でも粘り強く続けられ、三党の合意がようやく成立したのは五月末でした。

「PKF参加の凍結」「国会の事前承認」「三年後の見直し」という合意は、政府・自民党にとっては譲歩した内容といえます。しかし、それでも六月十五日に成立したPKO法は、日本の国際貢献への第一歩として画期的であり、その後、この法律に基づいてカンボジア、モザンビークへのPKO部隊の派遣、ルアンダでの難民救済活動などが展開され、日本の国際貢献が高く評価されることになります。

このPKO修正法案をめぐる衆院本会議の採決は、社会党と社民連の牛歩戦術で混乱しました。加えて、両党は所属衆院議員全員の辞表を桜内義雄議長に提出して解散総選挙を狙う前代未聞の戦術をとりました。桜内議長は辞表を受理せず、預かるにとどめたため政治の空白を生まずに済みましたが、もし解散していればバブル崩壊の経済不振にあえいでいた国民生活に大きな打撃があったでしょう。自民党は、社会、社民連両党のそういったやりくちに対抗して内閣信任案を提出して自民、公明、民社の三党で可決、「自公民路線」を固めるという手を打ちましたが、国会の与野党対決ムードは高まりました。

日本の農業関係者が最大の関心をもって行方を見守っていたウルグアイ・ラウンドは宮沢内閣が発足して間もなくの平成三年暮れ、関税・貿易一般協定(ガット)のドゥンケル事務局長が農業分野でコメを含む例外なき関税化の最終合意案を各国に提示しました。加藤官房長官はすぐさま記者会見で政府の遺憾の意を表明しましたが、国際社会の流れに抗しきれぬとの見方もあり、この後、コメの自由化は政治の最大問題のひとつとして論議されていきます。

宮沢内閣にとって、コメ自由化問題を上回る難関は政治改革でした。リクルート事件以来、政治改革を求める世論は高く、これを踏まえて宮沢首相は平成四年通常国会の冒頭の施政方針演説で「政治改革に全力をあげる」と宣言、党総裁として、(1)衆院定数是正(2)政治資金(3)政治倫理(4)国会改革 の四項目について、早急に具体案を作成して通常国会中に法案成立にこぎつけるよう自民党に指示しました。しかし、何をもって政治改革とするかの論議が分かれるうえ、党内には衆院への小選挙区比例代表並立制導入を急ぐべきだなどの主張とこれに強く反対する意見があり、なかなか意見統一は難しい状況でした。

しかも、そんな状況に拍車をかけるように平成四年一月には鉄骨資材メーカー「共和」事件、二月には東京佐川急便事件が発生。三月二十日には栃木県で講演中の金丸副総裁に向けて短銃が発砲される事件などがあり、政界は騒然とした雰囲気に包まれていきます。

五月二十二日に細川護煕氏が既成政党を批判する立場から旗揚げした日本新党は、そうした雰囲気の中で国民の不満の受け皿になることを意図したもので、これが後の自民党からの一部勢力の離党につながり、自民党の下野、それまでの野党勢力による細川政権樹立へという流れの発端になりました。

宮沢首相は国内政治に汗を流す一方、外交に全力投球しました。平成四年一月八、九日の両日、日本を訪問した米国のブッシュ大統領との首脳会談が手初めで、課題は減速傾向をみせていた日本経済に、米国が最大産業である自動車業界の圧力を背景にどのような注文をつけてくるかでした。日米両首脳は五時間に及ぶ会談の結果、成長に重点を置いた政策協調をうたった「世界成長戦略に関する共同声明」と、両国の経済摩擦解消へ向けた「東京宣言」「行動計画」を発表しました。「行動計画」は日本が米国から購入する自動車部品の数値目標が入った厳しい内容でしたが、日米協調路線は維持されました。この訪日の途中、ブッシュ大統領が首相官邸で開かれた晩餐会で流行性感冒による胃腸炎で倒れ、世界を驚かせる一幕もありました。

宮沢首相は同一月に韓国を訪問して盧泰愚大統領と会談、続けて同月三十一日にはニューヨークの国連本部で開かれた初の安全保障理事会首脳会議に出席、ロシアのエリツィン大統領とも会談しました。首脳会議の席で、宮沢首相は日本の首脳として初めて安全保障理事会常任国入りへの強い意欲を表明し、その動きが以後一貫して日本外交の目標のひとつになりました。

四月には中国の江沢民国家主席が来日、平成四年が日中国交回復二十周年を迎えるのを機として、天皇、皇后両陛下に中国訪問を招請しました。両陛下はこれを受けて同年十月に、中国を訪問し、先の大戦から続く両国民の心情的わだかまりの解消と友好親善の前進に大きな役割を果たされました。

一方、国内政治は、平成四年後半から五年にかけて、政治改革が具体的進展をみないことや、相次ぐスキャンダルの発生で重苦しい状況が続きました。四年八月には佐川急便事件に関連して金丸副総裁が辞任、金丸氏は十月には衆院議員を辞職するやむなきに至りました。政府・自民党は四年八月に十兆円規模の緊急経済対策を発表しましたが景気が好転した実感は得られませんでした。

ただ、宮沢内閣に対する国民の支持は、難局に当たる首相の真摯な姿勢が好感をもたれて高く、四年七月に行われた参院選挙では自民党が改選議席(百二十七)の過半数を超える六十八議席を獲得、勝利しました。旗揚げしたばかりの日本新党は四議席でした。

そうした状況の中、政治改革を求める世論はますます高まりをみせ、十一月には東京・日比谷公園で民間政治臨調が四千人を集めて「中選挙区制度廃止宣言」を行うなど、マスコミを巻き込んだ改革不可避のムードが濃厚になって行きました。宮沢首相は、四年秋からの臨時国会で九増十減の衆院定数是正、違法な寄付の没収などの政治資金規正法改正案などを成立させる一方、自民党が同年十二月までにまとめた(1)衆院に単純小選挙区を導入(2)政党交付金制度の導入(3)派閥の弊害除去 など抜本的政治改革を実現する方針を掲げました。ところが、その直前に起きた不測の事態が、その後の予想外の政治展開につながり、実現にブレーキがかかります。

金丸氏の議員辞職をめぐる自民党内最大のグループの分裂がそれでした。小沢一郎元幹事長、羽田孜蔵相らのグループが、竹下氏、小渕恵三氏らと袂を分かち、新政策集団を結成。このグループは翌年六月、自民党を離党して新生党を旗揚げすることになります。

宮沢首相は、四年十二月十一日に党・内閣人事の改造を断行。党幹事長に梶山静六氏、総務会長に佐藤孝行氏、政調会長に三塚博氏を当てました。また、内閣では蔵相を羽田氏から林義郎氏に替えるとともに、官房長官に河野洋平氏を当て、自民党内の混乱の収拾と政治改革断行に向けた態勢をとりました。ただ、五年四月には渡部美智雄副総理兼外相が病気のため辞任、副総理には政治改革推進派の後藤田正晴法相が就任します。

宮沢首相は五年一月二十二日召集の通常国会で抜本的政治改革を実現するとして、施政方針演説でも強調します。しかし、それにもかかわらず、自民党内の意見は二分され、まとまりません。これが、後の新生党の旗揚げや、それと相前後した竹村正義、鳩山由紀夫氏らの自民党からの集団離党につながり、政局を激動させることになりました。

自民党は三月三十一日、政治改革四法案を党議決定しましたが、宮沢首相は党内情勢を考慮し、通常国会の閉幕が近づいた六月中旬、政治改革法案の成立を次期国会に先送りする意向を固めます。これに対して、野党陣営は内閣不信任案を衆院に提出、後に自民党から離党して新生党を作る羽田氏らのグループ、同じく新党さきがけを結成する武村氏のグループがともにこれに賛成票を投じ、六月十八日、不信任案は成立してしまいます。これに対し、宮沢首相は衆院解散を断行、七月四日に総選挙が公示され十八日に投・開票が行われました。

この選挙期間中には、東京で先進国首脳会議(東京サミット)が開かれ、宮沢首相は日ロ首脳会談に臨むなど、議長として各国首脳への応対に忙殺され、選挙戦を十分戦うことができませんでした。さらに、衆院選公示直前に東京地検がゼネコン談合事件を摘発、仙台市長が逮捕され、これが与党の選挙に不利となったことも否めません。選挙の結果、自民党は過半数を得るに至らず、宮沢首相は退陣を表明します。

宮沢内閣の後には、非自民勢力七党が連立した細川内閣が成立(八月六日)、自民党は保守合同後、はじめての野党に転落します。自民党の新しい総裁には七月三十日に河野洋平氏が就任しました。

この間の明るいニュースとしては、六月九日に執り行われた皇太子殿下と小和田雅子さまの結婚の儀がありました。

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