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党のあゆみ

第22代 福田 康夫

福田総裁時代

安倍首相の突然の退陣表明に伴い、政治空白を避けるため、直ちに総裁選が行われることとなり、福田康夫元官房長官と麻生太郎幹事長の二人で争うことになりました。投開票は平成十九年九月二十三日の党大会に代わる両院議員総会で行われ、福田氏三百三十票、麻生氏百九十七票で福田氏が新総裁に選ばれました。福田氏は故・福田赳夫元首相の長男で、憲政史上初となる親子二代での首相就任となります。
二日後の二十五日に行われた首班指名では、先の参院選の結果により、参院で与野党の議席数が逆転した「ねじれ国会」になったため、衆院では福田氏、参院では民主党代表の小沢一郎氏が首班指名を受けました。結果、衆院の優越により福田首相が誕生しますが、ねじれ状態は福田内閣の政権運営におけるキーワードとなっていきました。
福田首相は安倍前首相の基本方針を継承し、目前に迫る国会論戦を考慮して、十七閣僚のうち、ほとんど再任するという現実的な対応をしました。組閣後の記者会見では政治状況を冷静に見極め「一歩でも間違えれば、自民党が政権を失う。それだけに私どもは緊張した日々を送らなければいけない」と述べて自ら「背水の陣内閣」と命名しました。
ねじれ状態は政権運営の最大のネックでした。自公連立政権が衆院では議席数の三分の二以上の圧倒的多数を占めている一方、参院では与党が過半数を割り込んでいました。いざとなれば憲法第五九条二項の規定により、参院で否決された法案を衆院で再可決して成立させることはできます。しかし、実際に、それをやれば「数の横暴」と各方面からの反発は免れません。
一方、野党第一党である民主党も深刻な課題を抱えていました。民主党は保守系から革新系までが混在する寄り合い所帯で、しかも、その歴史は浅く、「政権交代」を声高に叫ぶも、実際は、政権担当能力が備わっていませんでした。
そこで浮上したのが、自民党との「大連立構想」でした。大連立は、英国、ドイツをはじめヨーロッパ諸国においては、しばしば見られますが、日本での成功例は稀です。インド洋での海上自衛隊による給油活動の継続問題、日本銀行の次期総裁・副総裁人事と、与野党の合意が必要な課題が山積しており、これらをクリアするために大連立が求められていた時期でもありました。
十月三十日と十一月二日、福田首相と小沢代表による党首会談が開かれ、連立政権樹立に向けた話し合いが行われました。ところが民主党執行部は、今が政権交代の絶好の機会と見なし、小沢代表の意向に背き連立政権構想に反対し、この動きは中止となりました。結局、小沢代表は福田首相に断念の意向を伝え、大連立構想は幻と消えました。それでも福田首相は理性的な国会運営に期待し、民主党からの協力を得るための糸口を探る構えを見せますが、民主党は結局、国益より政局を優先し、国会において与党との鋭角的な対決路線に転じました。
十一月一日に期限が切れたテロ対策特措法に代わって、海上自衛隊のインド洋上での給油活動が再開できるようにするための一年間の時限立法である新テロ対策特措法は、衆院で可決するも、参院で否決されたため、平成二十年一月、衆院での再可決で成立させました。「テロとの闘い」において国際社会が連帯する中で、日本も大国としての責任を果たしていくことは当然です。参院で否決された法案の再可決は昭和二十六年以来、五十七年ぶりでした。
日銀の次期総裁・副総裁人事についても長い混乱が続きました。民主党は、政府が提案した人事案を次々と否決に追い込んでいきます。最終的に日銀生え抜きの白川方明総裁で決まりましたが、副総裁は定員二人のうち一人が空席のままとなりました。
さらには、ガソリン税の暫定税率期限切れに伴う税制関連法案といった国民生活に直結する重要法案を民主党は政争の具に利用しました。その結果、福田首相は、批判覚悟で衆院での二度目の再可決によって、この法案を成立させました。
福田首相の政治理念は、「国民から信頼される政治」にほかなりませんでした。「消えた年金」問題で示された政治や行政に対する国民の不満や不信は大きく、失われた国民の信頼を取り戻さずして政治は成り立たないと決意したのです。
戦後復興期の名残で、行政や生産者、企業の立場を優先する傾向にあった法律や制度を見直し、真に国民の立場に立った制度を確立することこそが、福田政治の根幹をなしていました。
後述の消費者庁設置は国民目線の行政を追求したものであり、総理就任以前より手掛けていた「百年住宅」構想制度は資源を節約し、国民の生涯負担を軽減するものです。
また、「公文書管理法」(後に麻生内閣で成立)は、公文書の保有はもちろん、政治や行政がいかなる経緯で実行されたのかを知ることは国民の当然の権利であり、民主主義の基本要件であるとの信念のもと、果断に立法準備を進めたのです。
平成二十年一月十八日の施政方針演説では「国民に新たな活力を与え、生活の質を高めるために、これまでの生産者・供給者の立場から作られた法律、制度、さらには行政や政治を、国民本位のものに改めなければなりません」と、これらの理念が色濃く反映されました。
消費者庁は、行政の縦割りを解消し「生活者や消費者が主役となる社会」を実現する消費者行政の司令塔で、これまでの「生産者・供給者の立場」から「国民本位」の行政への、画期的な転換を象徴するものでした(消費者庁は続く麻生内閣で関連法案が成立し、翌年九月一日からスタートしました)。
福田首相は外交にも積極的に取り組みました。平成十九年十一月、初外遊となった訪米ではブッシュ大統領との日米首脳会談において、「日米同盟が日米によるアジア外交の展開における要であり、また、日米がグローバルな諸課題に対処していく上で不可欠の役割を果たしている」として、日米関係をさらに盤石なものとしていくことで一致しました。さらに日米関係の深化に向け、知的交流、草の根交流、日本語教育の充実・強化について合意しました。
他方、アジア外交にも力を入れました。米国から帰国した直後、福田首相は第三回EAS(東アジア首脳会議)に出席するため、シンガポールに飛びました。ここで多くのアジア諸国の首脳陣と会談し、信頼関係を確認しましたが、東南アジア諸国では、福田ドクトリンの「ハート・トゥ・ハート」が根付き、定着していることに意を強くしました。
平成二十年五月、国賓として来日した中国の胡錦濤国家主席とは、日中協力よる地域の平和と世界への貢献をうたう日中間の重要文書に署名し、さらに環境対策で日中協力を約束しました。韓国の李明博大統領とは日韓新時代を進めるための方策について合意しました。
福田外交の総仕上げとも言えるのが、平成二十年七月七日から九日までの三日間にわたって開かれた北海道洞爺湖サミットでした。日本でのG8首脳会合開催は、平成十二年七月の九州・沖縄サミット以来八年ぶりのことです。正式メンバーのG8に加え、アフリカ諸国をはじめ過去最多の計二十二カ国の首脳陣が集いました。
世界経済に加え、環境・気候変動、開発・アフリカ、北朝鮮による核開発や拉致問題などの政治問題を主要議題として、多くの成果を生み出すことができました。首脳宣言の中に、初めて北朝鮮による拉致問題が盛り込まれ、採択されました。
特に当時最も注目されていた地球温暖化対策に関しては首脳宣言に「二〇五〇年までに世界全体の温室効果ガス排出量を五〇㌫削減することを合意」と明記しました。これは六月九日に福田首相が発表した低炭素社会の実現に向け日本は二〇五〇年までに温室効果ガスの排出量を六〇〜八〇㌫削減するという「福田ビジョン」を反映させたものでした。「福田ビジョン」は、サミットにおける地球温暖化対策の議論を進展させる叩き台となりました。
洞爺湖サミットの首脳宣言で、「温室効果ガス五〇㌫削減」を明記した裏には、一つの隠れたエピソードがあります。
当初宣言文は、「温室効果ガス削減」についてこれを「期待する」という曖昧な表現でした。しかし福田首相は、宣言文発表前日の深夜からブッシュ米大統領と交渉を重ね、ついに「温室効果ガス五〇㌫削減」の明記にこぎ着けたのです。福田首相の環境問題に対する強い思いがブッシュ大統領の心を動かし、人類にとって有意義な結果を出すことができたのです。
会議終了後、各国首脳は、宣言文の内容に満足し、喜んで帰国しました。毎年のG8首脳会議を評定してきたカナダのトロント大学は、「洞爺湖サミットは、過去のサミットの中でも最高位に属する出来栄え」と高い評価を与えました。
八月二日、福田首相は内閣改造を行いました。十七閣僚のうち十三閣僚を入れ替える大幅改造を行い、併せて麻生太郎氏を幹事長に起用しました。
福田首相は「安心実現内閣」と命名し、「国民目線、生活実感を踏まえた改革を新しい内閣の下でしっかりと実行していく決意である」と訴えました。
それから一カ月後、福田首相は退陣を表明します。退陣の理由を記者会見では「国民生活のことを第一に考えるならば、今ここで政治の駆け引きで政治的な空白を生じ、政策実施の歩みを止めることがあってはなりません」と述べた上で、「私が続けていくのと、新しい人がやるのと、これは間違いなく違うと私が考えた結果です。それは、いろいろな状況を考えて政治的な判断をしたということです」と、淡々と、その理由を語りました。その意味するところは、新政権により解散・総選挙を行い、自民党による体制をあくまでも継続することでした。
福田首相は、ねじれ国会の下、最後まで民主党からの攻勢に苦しめられました。しかし、そのような複雑な政治状況の中でも後期高齢者医療制度の開始、C型肝炎対策、道路特定財源の一般財源化、環境モデル都市の創設などの政策実現に向け尽力し、社会保障国民会議の設置をはじめとする重要政策の基礎を築いたのでした。
福田政治は決して派手ではなく、国民受けを狙ったり名声を求めたりすることがありませんでした。しかしその政策の多くが後の自民党政権に引き継がれ、立党の精神である「政治は国民のもの」という原点に帰る大きなきっかけともなったのです。

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