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党のあゆみ

第24代 谷垣 禎一

谷垣総裁時代

自民党は退陣した麻生総裁に代わる新たな総裁を選ぶため、平成二十一年九月二十八日に総裁選を実施しました。総裁選には西村康稔前外務政務官、河野太郎元法務副大臣、谷垣禎一元財務相の三人が立候補しました。いずれも火中の栗を拾う覚悟で戦いに挑みます。
開票の結果、谷垣氏三百票(議員票百二十票、党員算定票百八十票)、河野氏百四十四票(議員票三十五票、党員算定票百九票)、西村氏五十四票(議員票四十三票、党員算定票十一票)で、谷垣氏が議員票、党員算定票いずれも約六割の支持を獲得し、第二十四代自民党総裁に就任しました。谷垣新総裁は「『政治は国民のもの』との原点に立ち返り、自由民主党が国民のために何をやる政党か、もう一回議論し、信じるところを正直に国民にぶつけていく。党改革は待ったなし」と、党再生と政権奪還に向け先頭に立って全力で取り組んでいく決意を述べました。さらに就任直後の記者会見では、「保守政党としての大道を歩んでいく」と明言し、次いで「国民の目線と十分に向かい合っていなかった」と、謙虚に選挙結果を振り返り「できるだけ早期に全国四十七都道府県に足を運び、地域の意見に耳を傾けたい」との意向を表明しました。
政治家の第一義的責任は、何よりも国民の声を吸い上げ、それを具体的政策にしていくことは言うまでもありません。政権を離れた今だからこそ、将来の与党復帰に向けて全国行脚を続け、それぞれの地域が抱える課題と向き合い、それを再出発の原動力にしようと、谷垣総裁は決心したのでした。
翌二十九日には早速、党三役人事を決定します。幹事長には大島理森国対委員長、総務会長に田野瀬良太郎元財務副大臣、政調会長に石破茂前農水相と、ベテランを配した逞しい布陣です。大島幹事長は「党内の力を結集させるのが私の使命。健全で、建設的で、堂々たる野党の姿を示し、国民の信頼を回復する」と抱負を述べ、田野瀬総務会長は「政権奪還に向けて、党内を取りまとめ、全身全霊で取り組んでいく」と語り、石破政調会長も「国民のため、日本のため、国際社会のため、必要なことを申し上げていく」と、政策立案機能の強化に取り組む考えを示しました。谷垣総裁は、十月早々から全国各地を回ります。地域の人々と車座になって語り合い、声なき声に耳を傾けました。謹厳実直、しかも親しみやすい人柄故、共感の輪・人気は徐々に広がっていきます。そんな中で、しばしば有権者から聞かれたのは「自民党とは一体どういう政党なのか。国民のために何をしてくれる政党なのか」という素朴な疑問でした。さらに「しっかり反省し、立ち直ってほしい」との期待、「自民党の顔が見えない」との批判もありました。谷垣総裁は、そのような意見に対し、「自由民主党とはこういう政党である」との態度を示すため、伊吹文明氏を座長に「政権構想会議」を立ち上げ、党再生の礎となる綱領改定を指示します。
綱領とは「党の憲法」とも言うべき文書であり、立党時の昭和三十年、立党五十周年の平成十七年に、それぞれ発表しています。谷垣総裁は、改めて立党の原点を再確認すべく、約一年間の議論を経て、平成二十二年一月、立党以来三度目となる新たな綱領を世に問いました。それが「新しい綱領『新たな出発─夢と希望と誇りの持てる国・愛する日本をめざして』」です。
立党から半世紀以上経ち、世の中は大きく変わりました。そこで、時代に合わなくなったものは補い、変わらぬ精神は継承し、来るべき未来に備えるという観点から、全てを書き換えたのではなく、従来の二つの綱領を増補したものです。
国民の意見を真摯に受け止め、丁寧に組み上げながら、綱領改定の作業に取り組んだ谷垣総裁時代は、野党として濃密な時間を費やし、党再生の歩みを刻んだと高く評価されています。
一方、自公連立政権に代わって誕生した民主党を中心とする鳩山由紀夫内閣は、選挙時にマニフェストで掲げた公約の実現に着手します。社民党、国民新党との三党連立政権でした。「脱官僚」「政治主導」をキャッチフレーズに、国家戦略室や行政刷新会議を新設、特に税金の無駄遣いを洗い出す「事業仕分け」は注目を浴びました。「コンクリートから人へ」をうたい、高校授業料の実質無償化や子ども手当、農家の戸別所得補償と、生産性や成長よりも給付・分配を重視した施策を打ち出します。しかし精緻な議論や準備なく始めた民主党の「社会実験」は破綻を来していきました。特に鳩山首相が公約した「普天間基地移転先は国外、最低でも県外」との無責任な約束は、過去の日米合意を覆すものであり、日米関係を悪化させました。
この間、自民党は単にこれらの問題点を追及、批判するのではなく、各々論点を明らかにし、具体的な提言を行い、「責任野党」としての存在感を発揮していきます。例えば谷垣総裁は平成二十二年四月、宮崎県で家畜伝染病である口蹄疫が広がっていることを受け、現地視察を行い、帰京後、鳩山内閣に先んじて、直ちに自民党内に口蹄疫対策本部を設置し、鳩山内閣に対して早急に対策を講じるよう申し入れます。長年の政権運営のノウハウが蓄積されている自民党ならではの対応でした。
結局、鳩山内閣は迷走に迷走を重ね、やがて社民党の連立離脱を招くと同時に鳩山首相自身の金銭スキャンダルも露呈し、六月、終焉を迎えました。続いて登場したのが菅直人内閣でした。通常国会は難問山積故、大島幹事長は民主党の枝野幸男幹事長に会期延長を打診します。しかし、民主党は菅内閣発足後、初の国政選挙である参院選を優先し、会期延長を拒否して、そのまま選挙戦に突入することになりました。
谷垣総裁は参院選を前に「与党を過半数割れに追い込めなかった場合は総裁を引責辞任する」と表明し、背水の陣を敷いて臨みました。
衆院選から一年も経っておらず、国民の審判がどう出るか注目されましたが、公明党との選挙協力も効果を上げ、改選議席百二十一議席中、自民党は五十一議席を獲得して改選第一党となり、民主党、国民新党の連立与党を過半数割れに追いこみました。特に一人区で自民党は圧勝し、党再生と政権奪還に向けた第一歩となりました。
参院選後の九月七日、日本の主権を脅かす大事件が起こります。尖閣諸島付近海域をパトロールしていた巡視船が、中国漁船を発見し、日本領海からの退去を命じましたが、それを無視して違法操業を続けた上、逃走時に巡視船二隻に体当たりをし、破損させたのです。海上保安庁は直ちに中国人船長を逮捕しました。
中国政府の反発に対し、菅内閣は、その船長を処分保留で釈放、本国に送還してしまいました。ちょうど国連総会の最中で、菅首相は中国の胡錦濤国家主席に相対して抗議しますが、その態度は下を向いてメモを棒読みするというものでした。菅内閣が毅然たる対応を示さない中、十一月、中国政府への配慮から非公開となっていた衝突時に撮影された動画が海上保安庁の職員によってユーチューブに投稿され、初めて真相が明らかにされます。国民は菅内閣の外交能力に大きな疑問を抱きました。
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、三陸沖から茨城沖を震源とするマグニチュード9・0の巨大地震が発生しました。死傷者は二万人近くに達し、東京電力福島第一原発事故により全村避難事態が生じるなど未曽有の災害となりました。自民党は震災発生直後の午後三時に谷垣総裁を本部長とする「東日本巨大地震緊急災害対策本部」を設置しました。これは菅内閣の対策本部設置より早い対応です。
三時四十五分の初会合で、谷垣総裁は挙国一致でこれに当たるとし、与野党の枠を超え、菅内閣を全面支援する方針を表明します。対策本部の協議では「補正予算も必要となる。わが党も協力していく」と述べ、その後、谷垣総裁は菅首相に電話で、その旨を伝えました。
一方、官邸で指揮を執るべき最高責任者たる菅首相は福島第一原発に震災翌日の十二日朝、ヘリコプターに乗って出向き、約五十分間にわたって視察します。その結果、現場作業員の作業着手が遅れ、対処が後手に回ってしまいました。菅内閣の危機管理能力のなさが露呈してしまったのです。
十九日、菅首相は谷垣総裁に副総理兼震災復興担当相としての入閣を打診しました。震災対策を大義名分に自民党との「大連立」によって政権安定を図ろうとしたのです。谷垣総裁は「今の態勢をいじる時ではなくて、災害復旧と言いますか、被災者の支援、原発の対応等々に全力を尽くす時ではないか。あまりにも唐突なご提案だと思います」と菅首相に釘を刺し、「これからも全面的に協力するつもりである」として、これを拒否しました。
谷垣総裁は三月末から四月に、山形、宮城、福島、 岩手各県の被災地や避難所を視察し、党幹部も手分けながら、救援物資の供給、被災者の救済に尽力しました。さらに五月十八日には、党内の英知を結集して作成した「東日本大震災復興再生基本法案」を衆院に提出します。これは、その後、政府案との擦り合わせの結果、東日本大震災復興基本法として結実します。
このような震災初期の対応が一段落した時点で、菅内閣に対する世論の評価は、さらに厳しくなっていきました。五月末、自民党と公明党は、菅内閣への不信任決議案を提出する方針を決定しました。一連の対応を経て、首相としての資質を問うたのです。自民党は、衆院解散は要求せず、あくまで首相交代を求めました。六月二日、不信任決議案が採決され、否決されたものの、与党内からも早期退陣を求める声が噴出しました。復旧・復興を優先する自民党は、与野党間で合意していた第二次補正予算案と特例公債法案、再生エネルギー特別措置法案の成立に協力しましたが、そうした動きが進む中、世論の退陣圧力に抗うことはできず、八月二十七日、菅首相は正式に退陣を表明しました。
九月に発足した野田佳彦内閣は復旧・復興を進め、民主党政権になって以来、経済界から批判が高まっている過度の円高是正、それに伴う国内における産業空洞化の対策を講じること、社会保障の機能強化と持続を図るため、社会保障と税一体改革の早急な具体化を目標としました。
自民党、公明党と野田内閣との間で共通認識が形成されたのが、その社会保障と税の一体改革の扱いでした。野田内閣は、これを重要課題に掲げ、平成二十四年三月、関連法案を通常国会に提出しました。最大のポイントは、少子高齢化が加速する中、持続的な社会保障を担保するため、五㌫の消費税率を平成二十六年四月に八㌫、平成二十七年十月に一〇㌫へと引き上げることでした。自民党も公明党も、そうした方向性では一致しており、協議が続けられました。関連法案は六月中旬に三党の合意がなされ、修正も加わり、六月末に衆院を通過し、八月に参院で成立にこぎ着けました。
ところが、民主党内では、これに反対する人々が相次いで離党し、政権基盤が揺らぎます。参院の採決直前、三党の党首会談が行われ、ここで野田首相は谷垣総裁、公明党の山口那津男代表に「法案が成立した後、近いうちに国民の信を問う」と発言しました。自民党にすれば、三年に及ぶ雌伏の時を経て、政権奪還の機会が訪れようとしていました。
このような一連の国会での動きとは別に、平成二十四年はサンフランシスコ講和条約締結から六十年の節目を迎えることから、自民党では憲法改正推進本部が発足し、新たな憲法改正草案の策定作業がスタートします。保利耕輔氏を本部長、中谷元氏を起草委員長に議論が進められ、現行憲法の前文から補則まで全ての条項を見直し、その結果、現行憲法より多い十一章百十カ条の草案が完成します。
前文は全て書き換えた上、時代の要請、新たな課題に対応した内容となりました。草案の発表によって、自民党は憲法改正に正面から体系的に取り組むことができる唯一の政党であることを広く世間にアピールすることができました。
そうした中、九月の総裁任期が迫っていました。谷垣総裁は立候補しないことを表明します。谷垣総裁は、小泉純一郎総裁以来、任期を全うした数少ない総裁の一人でした。野にありながら、震災への対応を始め、党史に残る数々の成果を上げたのでした。

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