昭和53年12月1日~昭和55年6月12日

大平正芳総裁時代

福田内閣退陣のあと、自由民主党史上、画期的な全党員・党友参加による総裁予備選挙の洗礼をうけて、昭和五十三年十二月一日、大平正芳氏が第九代総裁に選任され、党内外の多大な期待を担って大平新内閣が登場しました。

新政権の発足に際して、ますます厳しさを加える内外情勢と、多難な政治運営の実情をふまえて、「信頼と合意の政治」「国民と苦楽を共にする政治」を基本姿勢に掲げて国民の協力を要請したのでした。

さらに政策目標としては、まず内政では、家庭基盤の充実を基本とする「日本型福祉社会の建設」、都市の活力と田園のゆとりの結合をめざす「田園都市国家構想の推進」を二本柱にすえ、また外交では、日米安保体制の堅持に加えて、質の高い自衛力の保持と経済協力、人づくり協力、文化外交の積極的展開等、多角的な外交努力を複合させた「総合安全保障戦略の推進」、開かれたゆるやかな地域連帯としての「環太平洋連帯の樹立」を打ち出すなど、その斬新な発想は多くの注目を集めました。

このような新しい政策発想の基本には、大平首相独自の、深い洞察力に満ちた時代認識と、哲学味豊かな政治観が、色こく滲み出ていたのを見逃すことはできません。すなわち、国内的には、高度成長によって豊かな物的繁栄を達成したわが国は、すでに経済中心の時代を終え、今後は生活の質的充実を目ざすべき「文化重視の時代」が到来していること、また国際的にも、資源制約と相互依存体制の進行により、共同体としての「地球社会」の自覚なしには、もはや人類の生存も困難になってきていること――などの透徹した時代認識がそれでした。

そして、他ならぬこのような香り高い政治哲学を基軸にすえて、内外政治の激動に対処し、わが国と国民生活の「たしかな未来」への礎石を築こうと、渾身の努力を続けたことが、大平政治をいろどる最大の特色だったといえるでしょう。

しかしながら、大平内閣時代の一年七カ月は、わが国をめぐる内外情勢が、戦後かつてない規模と内容で激変し、内政も外交も、歴史的大転換期の困難きわまりない選択に迫られた苦難の時期でありました。

まず国内情勢では、第一次石油危機の深刻な不況はようやく乗りきったものの、その後遺症としての財政の不健全化が残り、五十四年度予算の公債依存度は三九・六パーセントに達し、財政事情はもはやこれ以上の放置を許されぬまでに悪化していました。加えて、引き続く第二次石油危機の到来は、エネルギー制約の長期化と深刻化を告げ、日本経済と国民生活の将来に大きな不安を投げかけるにいたりました。

また国際情勢でも、世界政治における米国の地位低下を背景にイラン革命、国際世論を無視したソ連のアフガニスタンへの武力介入、北方領土における軍事力増強等の事件が相次いで起こり、にわかに国際緊張が高まったのです。この結果、わが国は、自国の安全確保のためのみならず、国際平和秩序の維持のためにも、自由民主主義陣営の主要国の一員としての新たな自主的対応と、世界政治への積極的参加を強く求められる状況となったのでした。

こうした非常事態に対処して、大平内閣は、時々刻々の情勢変化に迅速かつ的確に対応し、みごとに転換期乗りきりの重責を果たす一方、内政、外交の各面にわたりめざましい成果をあげました。しかもその施策の内容が、当面する「国民生活の防衛」に全力を傾注するかたわら、中・長期的視野に立った「たしかな未来」を築くための諸施策を、着実に推進した点に大平時代の特色があったといえましょう。

このうち、内政面で大平時代を飾る具体的施策としては、まず第一に、雇用対策の画期的前進と福祉政策を挙げねばなりません。

大平内閣の発足当時、景気は着実に上昇過程にあったものの、その半面、構造不況産業を中心になお百二十万人前後の完全失業者があり、雇用不安の解消は最優先の急務でした。このため、五十四年に雇用対策を最重点政策として取りあげ、総額一兆七千億円の予算を投じて、その飛躍的充実をはかったのです。

この雇用対策は、内容的にも、中高年齢者を中心に新規の雇用創出十万人、定年延長による失業の防止九万人、失業給付金の支給期間の延長による失業者の生活安定百六十三万人という画期的なものでした。その効果は大きく、翌五十五年には景気回復による雇用増と相まって、雇用情勢は急速に改善されました。

さらに、苦しい財政事情の中で、五十五年から厚生年金、国民年金、福祉年金等の増額をはかったことも見逃せません。この結果、厚生年金の標準的支給月額は十三万六千円(三十年加入)となり、まさに世界の最高レベルをいく福祉水準を達成したのです。これら雇用対策および福祉政策におけるめざましい成果は、「国民生活の防衛」「日本型福祉社会の建設」を目ざした大平時代の輝かしい業績として、高く評価されるべきものでした。

第二には、本格的な石油制約時代の到来にそなえて、エネルギー供給の長期安定をはかるため、エネルギー対策の飛躍的前進をはかった施策でした。

第一次、第二次石油危機を体験した大平内閣および自由民主党は、深刻化しつつある石油制約を克服し、国民経済と国民生活を維持、充実できるだけのエネルギー供給を長期かつ安定的に確保することこそ、最重要の政治課題であるとの認識に立って、五十五年に画期的なエネルギー対策を講じたのです。

この対策は、たんに予算面で前年度比三〇・九パーセント増の七千四百億円と、大幅に増額しただけにとどまりません。長期的なエネルギー需給の見とおしに基づき、石油代替エネルギーの開発・利用を進めるため、その必要資金の長期的、安定的確保の道を開いたこと、「新エネルギー総合開発機構」を創設し、その中核的推進母体をつくったこと等の点で、今後のわが国の中・長期的なエネルギー対策に、歴史的な意義をもつ対策だったのです。まさに、八〇年代の初頭を飾るにふさわしい重要な礎石だったといえましょう。

このほか、首相在任中、財政再建にかけた大平首相の燃えるような情熱とあくなき努力もまた、責任感あふれる政治指導者の行動として多大の感銘を残すものでした。

大平首相は、首相就任の直後から、財政再建への軌道をしき、わが国と国民生活の「たしかな未来」への道を切りひらくことこそが、自らの政権に課せられた最大の政治使命であるとの自覚に徹していました。このため、五十四年に日本経済が、本格的な景気の上昇軌道に乗ったのを見さだめると、同年十月の総選挙では、大胆にも「新たな負担」の是非を国民に問い、また五十五年度予算では、徹底的な歳入・歳出の見直し等によって、公債発行額を一兆円減額し、財政の公債依存度を三三・五パーセントに引き下げるなど、懸命の努力を続けたのでした。

こうした大平首相の悲願は、その非運の死によって第一歩を踏み出しただけに終わりましたが、そのあくなき努力によって、財政再建の必要性については、与野党を問わず広く国民的合意が形成されるにいたったのは、大平首相の偉大な功績だったといわねばなりません。

次いで外交に目を転じますと、何といっても特筆すべき業績としては、五十四年六月、東京で開かれた先進国首脳会議(「東京サミット」)の画期的成功でありました。大平内閣および自由民主党は、アジアで初めて開かれたこの首脳会議を成功させるため全力を尽くしましたが、とくに大平首相は、議長として会議全体をリードし、歴史的な「東京宣言」をまとめあげて、見事な外交的成果をおさめました。

とりわけ、この「東京宣言」は、石油輸出国の限界のない値上げ攻勢と生産抑制戦略に対抗するため、主要消費国である先進七カ国が歩調をそろえて、一九七九年と、八〇年から八五年の国別の具体的な年間輸入量を設定して石油消費の節約を誓いあったこと、代替エネルギーの開発の具体策を打ち出したこと等の諸点で、先進国首脳会議の歴史を通じても画期的なものと高く評価されたのでした。

このほか大平首相は、五十四年から五十五年にかけて米国、中国、豪州、ニュージーランド、メキシコ、カナダ、ユーゴスラビア、西独の各国を歴訪し、文字どおり東奔西走、緊迫化する国際情勢に対処して活発な首脳外交を展開しましたが、その間、カーター米大統領、華国鋒・中国首相の来日を実現し、両国との友好親善関係の強化に大きく貢献したことも見逃せません。

しかし、大平時代の外交で最も注目すべき功績は、イラン革命にともなう米大使館不法占拠事件、アフガニスタンへのソ連の武力介入問題等、にわかに高まった国際緊張材料に対する毅然たる政策選択でありました。これら国際社会の基本秩序を脅かす不法行為に対しては、「それがたとえわが国にとって犠牲をともなうものであっても、避けてはならない」との大平首相の不動の信念のもとに、ココムの輸出規制の強化等の経済制裁、モスクワ五輪不参加などを、他国に先がけて率先して実行したのがそれであります。

その背景には、世界政治における米国の地位低下を基因とする国際緊張激化という新事態に対応し、米国、西欧、日本を中心とする「同盟関係」の協調・連帯をいっそう強化することによって対処しようという、不退転の決意があったからに他なりません。

この勇気ある決断こそ、まさに他の治政の何よりもまして、大平政治の真価を示したものであり、日本外交に新時代を画するものだったといえましょう。

こうして大平内閣は、内政、外交にわたり、いくたの輝かしい業績を残し、歴史的大転換期の政権の使命を見事に達成したのでしたが、総裁として、自由民主党再興に果たした偉大な功績もまた、結党二十五年におよぶわが党の歴史に、不滅の金字塔を樹立するものでありました。

そのまず第一は、党組織の飛躍的拡充です。自由民主党は、福田前総裁時代の百五十万党員・党友の獲得に引き続き、大平時代には"一人が一人の党員・党友を獲得する"ことを目標に、「三百万党員獲得運動」「組織整備三カ年計画」「党員研修三カ年計画」など、党下部組織の量的・質的拡充に党をあげて取り組みました。その結果、五十五年一月には、登録党員数は三百十万六千七百三名、党友たる自由国民会議の会員数は十万七千七十三名に達し、わが党を支える裾野は空前の広がりを示すにいたりました。

第二は、このような党組織拡充の波に乗っためざましい党勢の躍進でした。

まず五十四年四月の統一地方選挙では、画期的な拡大を示した党員・党友組織が、「一人で十票」の得票を目標に着実に票を獲得するなど、挙党体制をもって戦った結果、長期にわたって革新の牙城であった東京、大阪の首長の座を奪還したのをはじめ、各地の知事選で十五勝零敗という圧倒的勝利をおさめました。

この余勢をかって、大平内閣および自由民主党は、政局安定をめざして同年十月、解散・総選挙に打って出たのですが、不幸にして投票日当日の悪天候と投票率の異常な低下、選挙運動期間中に続発した官公庁、各種公的機関の綱紀弛緩の表面化などの悪条件が重なったことが起因して、獲得議席は二百四十八、保守系無所属の追加公認を加えても二百五十八議席という、不本意な結果に終わったのでした。

しかしながら、政局安定の悲願に燃える大平首相は、これに屈することなく翌五十五年五月、たまたま社会党の党利・党略的な大平内閣不信任案が提出された機会をとらえて、「衆・参両院同日選挙」の実施という非常手段に訴えて、国民の信を問う勇断を下したのでした。そして、自らこの歴史的な政治決戦の陣頭に立ち、「不安定な野党連合政権か安定した自民党政権か」の選択を国民に迫って、国政安定への熱情をほとばしらせました。

だが、非運にも戦いなかばにして病に倒れ、六月十二日未明、勝利の日を見ることなく急逝したのでした。しかし大平首相は、死の瞬間まで、自由民主党の圧勝と政局の安定を願い続け、二度にわたり病床から、全党員・党友の決起を訴えるメッセージを発表するなど、不屈の闘志を燃やし続けたのです。このような大平首相の燃えるような愛党心と、国政安定にかけた情熱は、党員・党友のみならず広く国民一般の胸を打ち、わが党の選挙体制は、かつてない結束と盛り上がりぶりを示したのでした。かくて開票の結果は、衆議院二百八十四議席、参議院六十九議席という文字どおりの圧勝となり、その後の保守系無所属の追加公認と参議院の非改選議員を加えた現有議席では、衆議院二百八十六議席、参議院百三十六議席と、衆・参両院にわたり安定過半数の体制を確立できたのです。

かくして大平時代は終わりましたが、自民党再興と政局安定に果たした偉大な功績は、不滅の光芒を放つとともに、政治指導者として歴史的大転換期の苦悩を一身に担い、国政に殉じたその壮烈な生きざまは、わが国戦後政治史に深く刻みこまれることでありましょう。