昭和51年12月23日~昭和53年12月1日

福田赳夫総裁時代

三木内閣退陣のあとをうけて、昭和五十一年十二月二十三日、福田赳夫氏が第八代総裁に就任し、党再生と不況脱出への衆望を担って、福田新内閣が登場しました。

福田内閣時代の二年間は、国内的には、衆・参両院において与野党議席の伯仲時代を迎えて、国政運営はますます複雑困難の度を加え、また国際的にも、資源有限時代の到来と世界的不況の深刻化を背景に、資源獲得や通商面での国際摩擦が激化するなど、内外ともに、かつてない多事多難な時期でした。一方、自由民主党としても、五十一年末総選挙で、国民の厳しい審判をうけたあとをうけて、立党いらいかつてない危機意識を抱き、福田総裁以下挙党一致、党改革に取り組んだ時期でもありました。

こうした内外情勢に対処するため、「協調と連帯」を基本姿勢に、内政では「景気の浮揚」と「雇用の安定」、外交では「世界の中の日本」の理念に立った積極的な国際協調、党再生のためには「出直し的改革」の目標を掲げて、その達成に力強く前進を続けたのでした。

このうち、まず内政面で福田時代をいろどる特色は、何といっても、景気の早期回復と雇用不安の解消をめざした超積極財政の強力な推進と、歴代内閣の残した重要懸案処理にかけた非常な情熱でした。このため福田首相は、三木前内閣時代にロッキード事件という不幸な事件によって、政治が停滞した反省の上に立ち、就任直後から党内外に「さあ働こう」と呼びかけて、きわめて意欲的に政治に取り組んだのです。

とくに景気対策については、「経済の福田」の面目にかけて、早期景気浮揚と雇用安定を重視するため、五十二年度は公債依存度三〇パーセント、五十三年度は実質三七パーセントという臨時・異例の大胆な公債政策にあえて踏み切り、実質経済成長率でそれぞれ六・七パーセント、七パーセント成長を目ざす財政主導型の超積極大型予算を組み、また財政投融資計画も大幅に拡大しました。そして公共投資を思いきって拡大し、二十八兆五千億円の新道路五カ年計画の発足、住宅政策の画期的拡充、各種公共事業の進行速度の繰り上げ、これらの予算の前倒し執行等あらゆる手段を駆使して、景気浮揚のための努力を傾注しました。

このような福田経済政策の成果は着々あがり、経済成長は先進国中第一位を占め、貿易は驚異的に増進し、物価は主要国の中で最も安定し、五十三年の消費者物価の上昇率は、三・八パーセントと十五年来の最低にとどまったのです。

その間、予想外の輸出の伸びと経常国際収支の黒字の大幅増大にともなって、国際通商摩擦が拡大し、また輸出の急増とアメリカの貿易赤字の増大は急激な円高を招き、経済成長率は目標に達しなかったものの、引き続く超積極政策によって、五十三年度後半から内需は見通し以上に拡大し、企業収益も好転するなど、石油危機いらい五年ぶりに、日本経済が回復基調に向かったのは、物価安定とともに、福田内閣時代を飾る偉大な功績です。

これ以外にも、三木前内閣いらいの懸案だった独占禁止法の改正に決着をつけ、また厚生年金、福祉年金、拠出制国民年金、恩給・遺族年金等の各種年金の引き上げ、二百カイリ時代の到来に対応した「十二カイリ領海法」および「二百カイリ漁業水域法」の制定、大企業と中小企業の事業分野を調整するための「中小企業事業分野調整法」の制定など、画期的な施策を進めたほか、五年越しの懸案だった「日韓大陸だな協定」の批准および同関連国内法案の成立、十三年越しの懸案だった「成田新国際空港」の開港等、後世に残る数々の成果を挙げました。

次いで外交面でも、福田内閣時代の成果にはめざましいものがありました。福田首相は、世界が資源有限時代に入ったいま、人類の行動原理は「協調と連帯」以外にないとの認識のもとに、積極的な首脳外交の展開に乗り出しました。五十二年三月にはワシントンでの日米首脳会談、同年五月にはロンドン、翌五十三年七月にはボンでそれぞれ先進国首脳会議に出席して、自由世界第二位の「経済大国」として、また石油ショック後、先進国の中で最高の経済成長を続けている日本として、世界の景気回復の先導役の責務を果たそうという意欲を率直に表明して、各国に多大の感銘を与えたのです。

さらに五十二年八月、ASEAN(東南アジア諸国連合)五カ国とビルマを訪問した際には、マニラで「日本と東南アジア諸国が物的相互依存関係だけでなく、心と心のふれあいによる物心一体の友好協力の確立と、アジアの建設、安定、繁栄に貢献する」ことをうたった"福田ドクトリン"を発表したことは、今後のわが国のアジア外交の目標を設定した点で画期的なものだったのです。

また、本格的な二百カイリ時代の到来と、厳しい国際漁業環境を背景に行われた日ソ漁業交渉の妥結と、漁業暫定協定の調印も、歴史的事績として見逃せません。しかし、福田時代を画する最大の外交的業績は、何といっても五十三年八月の日中平和友好条約の調印でした。同年十月には、トウショウヘイ・中国副首相がみずから来日して批准書の交換が行われ、これをもって、日中間の最大懸案は日中共同声明後、六年越しで最終的に解決されたわけです。この条約締結が、日中両国の友好と繁栄のみならず、アジアの安定、世界の平和確保という国際政治全体に占める重要性からみて、これはまさに歴史的成果だったといわねばなりません。

こうして福田内閣は、内政、外交にわたり数々の偉業を達成したのでしたが、総裁として自由民主党の再建に果たした輝かしい業績は、自由民主党史を飾る偉大な功績でした。

そのまず第一は、五十二年七月の参議院選挙の勝利を頂点とする各種選挙での圧倒的勝利です。福田内閣および自由民主党は、五十一年末総選挙での敗北以後、かつてない危機感をもち、全党をあげて党改革を断行する一方、派閥解消の一環として、従来各派閥が主催していた青年研修会に代えて、党主催による「全国夏季研修会」を開催しました。

これらの努力は見事に実り、参議院選挙では、「与野党逆転必至」の大方の予測をくつがえして、改選議席六十五を上回る六十六議席を獲得し、政局安定へ向けて大きく前進したのでした。また各種地方選挙でも、多くの革新自治体から首長を奪還し、五十二年は七県の知事選挙で全勝、市長選挙では百八勝十九敗、続く五十三年にも、知事選挙で九勝一敗、市長選挙で百六十一勝三十一敗とめざましい成績をおさめました。なかんずく、長期にわたり革新の牙城だった京都、沖縄で首長の座の奪還に成功したのは、まさに特筆すべき成果です。

第二は、福田総裁の悲願だった「党改革」の画期的前進です。五十一年末総選挙の結果に象徴される政治不信の異常な高まりと、党勢の長期停滞に対して、かつてない厳しい自己反省を行い、五十二年一月の党大会および四月の臨時党大会で、党改革について真剣な討議を重ねた末、「開かれた国民政党」への脱皮を目ざして、(1)全党員・党友参加による総裁選挙の断行、(2)党の組織力と財政基盤強化のための自由国民会議の結成、(3)派閥の弊害除去と広報活動の強化充実――などの具体的な党改革案を決定、その実行を国民に公約しました。

以後二年間、福田総裁以下党をあげて、この公約達成に向かって一路前進し、ついに五十三年十一月、全国百五十万党員・党友の参加による総裁予備選挙という、わが国政党史上かつていかなる政党もなし得なかった一大壮挙の実現に挑戦し、見事にこれを達成したのでした。

この結果、国民の自由民主党に対する信頼と期待は高まり、五十三年十二月末現在で、党員数は百四十万五千九百九十五名、党友である自由国民会議の会員数は十九万百六十五名に達し、党を支える下部組織は、結党以来二十三年におよぶ党の歴史を通じて空前の飛躍的充実をみるにいたり、自由民主党は、「開かれた国民政党」の理想に向かって、画期的な前進をとげました。

しかも忘れ得ないのは、以上のように内政、外交面でいくたの輝かしい業績をあげ、党改革と党勢回復の面でも歴史的な功績をあげた福田総裁が、党員・党友参加による総裁候補決定選挙の結果、十一月二十七日、一位に大平正芳氏が選ばれたことが確定すると同時に、ただちに愛党の至情から、総裁決定選挙への出馬辞退の意思を表明し、二年間にわたる総理・総裁の座を自らおりたことでした。

この福田総裁のさわやかな出処進退は、福田内閣時代の不滅の業績とともに、長く後世の歴史に残るでありましょう。