昭和49年12月4日~昭和51年12月23日
田中内閣のあわただしい退陣のあとをうけて、昭和四十九年十二月四日、三木武夫氏が第七代総裁に選ばれ、「クリーン内閣」といわれた三木新内閣が誕生しました。
三木内閣は、「対話と協調」を基本姿勢に、「清潔で偽りのない政治」「インフレ下における社会的公正の確保」「不況の克服」「党近代化」の実現などを政治目標に掲げて出発しました。
時あたかも、三木内閣発足の翌五十年は、戦後満三十年、自由民主党にとっても、結党後、二十周年を迎えた記念すべき年でした。しかし、三木内閣が直面する内外の環境にはきわめて厳しいものがありました。すなわち、世界経済は戦後最も深刻なインフレ不況のどん底にあり、当然わが国もまた、その荒波をもろにうけて、かつてないインフレ不況と空前の財政難に当面し、それからの脱出が、最大かつ緊急の政治課題とされていた時期でした。
しかも、多党化時代を迎えながら、野党各党には、なお「責任野党」としての自覚はなく、野党間の主導権争いによる党利党略が先行して、とくに与野党伯仲となった参議院での行動は複雑怪奇をきわめました。このため三木首相が、「対話と協調」の政治によって、議会政治に対する信頼を高めようという固い信念と、燃えるような情熱をもって努力したにもかかわらず、三木内閣および自由民主党の政治運営は、まことに容易ならぬものがあったのです。
まず内政面でみると、三木内閣の二年間を貫いて、「政治浄化」と「社会的公正の実現」こそが、終始変わらぬ基本的な政治基調でした。この政治理念の達成のため、三木首相は、五十年の第七十五回通常国会に、衆議院選挙区定数の合理化と公営選挙の拡大、行きすぎた物量選挙の規制強化を含む「公職選挙法の改正」、企業、労働団体等の政治献金の規制強化を内容とする「政治資金規正法の改正」、自由経済体制の中での秩序維持と、企業活動の倫理確立をめざす「独占禁止法の改正」の三重要法案を提案して、その成立を期したのです。
ところが、これら重要法案の審議は、衆議院ではきわめて順調に進んだにもかかわらず、与野党伯仲の参議院段階になって、公職選挙法改正案の中に含まれていたビラ規制強化に反対する共産、公明両党が暴力的議事妨害を続けたあおりをくって、独占禁止法改正案をはじめ、国民生活関連の各種重要法案、条約承認案件は軒並み審議未了の憂き目をみたのでした。
それでも、三木首相が理想とする公明清潔な政治を実現するため、野党の強い反対を押しきって公職選挙法と政治資金規正法の画期的な大改正をなしとげたことは、三木内閣時代を象徴する輝かしい業績だったといえるでしょう。
さらに、苦しい財政事情のもとで、インフレ下の社会的公正を確保しようという三木首相の強い要望から、福祉年金の六割引き上げ、恩給、遺族年金の三八パーセント引き上げなどの「福祉優先の政治」を貫きました。またマイ・ホーム建設のための宅地取得難もまた、社会的不公正の一つであるとの認識のもとに、庶民に安くて良質の土地を、長期低利の年賦償還方式で大量に供給することを目ざした「宅地開発公団」の新設や、住宅難に苦しむ大都市での大規模な宅地供給と住宅街整備のための「大都市における住宅地等供給促進法」の制定なども、いかにも三木内閣らしい実績として見逃すことはできません。
さらに三木首相は、このような三木政治の政策目標を集大成した長期ビジョンとして、同年七月、「生涯設計(ライフ・サイクル)計画」をまとめ、自由民主党内にも特別委員会を設置して、その具体化に意欲を燃やしました。この計画は、高度経済成長から安定成長時代に移行した経済社会において、「すべての人の生涯を通じての生きがいのある安定した生活」の実現をめざす画期的な構想でしたが、財政事情の悪化などから日の目をみなかったのは、きわめて残念なことでした。
こうして、「社会的公正の実現」や「福祉優先」に意欲を燃やした三木内閣でしたが、この内閣に課せられたもう一つの重大な政策課題は、「不況の克服」です。田中前内閣いらいの総需要抑制政策は、予期以上の実効をあげ、五十年度末には、消費者物価上昇率を八・六パーセントに押さえこむことに成功し、さしもの狂乱物価も沈静の方向に進んだのですが、不況を背景に深刻な雇用不安に発展したのです。
このため三木内閣および自由民主党は、それまでの総需要抑制政策から一転して、財政主導型の総需要創出政策に転換することとして、五十年度大型補正予算を編成し、引き続き五十一年度予算の編成においても、公債依存度三〇パーセントという大胆な公債政策の活用によって、総額二十四兆二千九百億円という空前の大型積極予算を組み、景気の早期回復を目ざしたのでした。
ところが、五十一年二月、いわゆる「ロッキード事件」が突発したのです。やがてこれは重大な政治問題に発展したばかりでなく、これを党利・党略的に利用しようとする野党側が、予算案や法案審議を約五十日間も放棄したため、予算の成立が年度開始後、四十日間も遅れたのみか、予算と一体不可分の財政特例法案や、国鉄運賃、電信電話料金改正法案の成立が半年も遅れました。この結果、せっかくの景気回復予算も、その効果を十分発揮できず、景気は中だるみのまま、五十一年を終わらざるを得ませんでした。
また、外交面に目を転ずると、三木首相は、五十年八月に訪米し、フォード大統領と会談して、韓国の安全問題や日米安保体制の堅持などで合意し、「新しい日米相互協力時代」の幕を開きました。また、同年十一月にはフランスのランブイエ、翌五十一年六月にはプエルトリコの首都サンファンと、二度にわたり先進国首脳会議に出席して、国際通貨の安定、自由貿易の拡大、エネルギー問題、南北問題の解決等の面で積極的な提言を行うなど、めざましい活躍をしたのでした。
一方、党活動においては、「政治資金規正法」の改正にともない、党財政の確立をはかるため、党役員・閣僚をあげて、全国各地で会費制による「政経文化パーティー」の開催を開始し、大きな効果をあげることができました。この政経文化パーティーは、その後も引き続き実施され、とくに党の地方支部の財政に大きな寄与をもたらしました。
しかしながら、ロッキード事件を契機として、政情は不安定化し、また党内的にも、国会運営に対する対応の仕方や、景気回復予算および財政関係法案の成立遅延などをめぐって、三木内閣および党執行部に対する批判が次第に強まりました。さらに五十一年六月には、党所属の六名の国会議員が離党し、「新自由クラブ」を結成するにいたったのです。
このような政情の動揺を続けたあげく、五十一年十二月、任期満了による総選挙が行われましたが、ロッキード事件に対する国民の批判は厳しく、自由民主党は、保守系無所属当選者を含めて、過半数をわずかに上回る二百六十一議席を獲得できたにとどまりました。このような総選挙の結果は、三木内閣および自由民主党にとって、大きく期待に反するものであったため、責任を痛感した三木首相は、自由民主党再生への願いをこめつつ、十二月十七日、総理・総裁の座を退きました。
しかし、三木首相は退陣に際して、自らが在任期間中に果たし得なかった「党近代化」について、(1)進歩的国民政党という立党の原点への回帰、(2)金権体質と派閥抗争の一掃、(3)全党員参加による新しい総裁公選制度の実施 の三項目からなる「党再生への提言」を残し、後事を次期総裁に託したのでしたが、この三木提言こそ、このあと実現された党改革の出発点となったもので、その意味でこの提言は、三木内閣時代の掉尾を飾るにふさわしい輝かしい事績だったといえましょう。