昭和47年7月5日~昭和49年12月4日

田中角栄総裁時代

佐藤長期安定政権のあとをついで、昭和四十七年七月五日、若さに満ち、清新はつらつとした田中角栄氏が歴代総裁中最も若い五十四歳で第六代総裁に選任され、田中新内閣がスタートしました。

田中首相は、複雑化の様相を強めてきた内外情勢に果断に対処するため、「決断と実行の政治」を政治運営の基本スローガンに掲げました。また政策的には、急激な高度成長によってもたらされた過密・過疎、公害、環境破壊等を克服して、日本全国をつり合いのとれた、豊かな国土にすることを目ざした「日本列島改造論」という大構想を国民に提示して、新内閣の組閣と同時に、きわめて意欲的に田中政治の展開に取り組んだのでした。

田中内閣が、まず第一に着手した重要政治課題は、日中国交正常化問題でした。これは佐藤内閣時代の四十六年十月の中国の国連加盟、台湾中華民国政府の国連離脱、四十七年二月のニクソン米大統領の訪中実現という新事態をうけて、戦後日本外交の歴史的大転換を目ざす画期的な大事業だったのです。

このため田中首相は、八月にはハワイでニクソン米大統領と、翌九月にはヒース英首相と東京で会談して、それぞれ日中復交について意見を交換するなど、事前調整の布石を着々と進めました。そして九月二十五日、大平外相とともに北京を訪問して、毛沢東主席、周恩来首相と会談を重ねたすえ、同月二十九日には、日中共同声明の調印にこぎつけ、満州事変いらい四十年余にわたる日中間の不幸な関係に終止符を打ったのです。

この日中正常化は、サンフランシスコ平和条約、日ソ共同宣言、日韓国交正常化、沖縄祖国復帰などに続く最も困難で、しかも戦後最大の外交課題だったのであり、これをなしとげた田中首相の決断は、この時代の他のいかなる治績よりも高く評価されるべきものだったのです。

しかし、その後二年五カ月にわたった田中内閣の時代は、内外ともに「激動の七〇年代」の大波をもろにかぶり、その政治経済運営は、まことに多事多難な試練の時代でした。

まず内政面での最重要課題は、インフレとの闘いでした。四十六年いらいのドル・ショック対策としての大幅金融緩和と、財政規模の積極的拡大は、輸出の予想以上の好調と景気の活況、大幅賃上げ等と相まって過剰流動性を生じ、これに将来の好況を見こしての仮需要も加わって、総需要が急増しました。これが引き金となって物価が急騰し、土地投機による地価の急上昇とあわせて、物価問題が最大の政治問題となったのです。

このため四十八年、「買占め売惜しみ防止法」を制定する一方、公共事業の繰り延べ、数次にわたる公定歩合の引き上げ等による厳しい総需要抑制政策に転じたのでした。

これら一連の物価抑制策が、ようやく効を奏しようとした矢先の同年十月、突如として第四次中東戦争が突発し、石油危機に発展したのです。その結果、世界経済全体が大混乱に陥り、わが国でも、先行き不安による思惑買いの横行、生活物資の買占め、売惜しみ、狂乱物価といった経済混乱、社会不安の中に追いこまれるにいたったのでした。

そこで同年十二月、「石油需給適正化法」「国民生活安定緊急措置法」の緊急立法を行い、石油需給の国家的規制と、重要生活物資の価格の法的規制に乗り出すとともに、引き続き徹底した緊縮政策を実施しました。これらの諸措置は、自由民主党が基本政策とする自由経済体制に、臨時・緊急かつ必要最小限とはいえ、統制経済的な手法をとりいれたものであり、自由経済を原則としつつも、これに「社会的公正」の確保を優先させた点で歴史的な意義をもつものでした。

また、この間にあって、「福祉優先の政治」を貫いたことも、田中内閣時代の大きな特色でした。すなわち、四十八年度に「福祉元年予算」を編成し、サラリーマン中心の大幅減税を行う一方、社会保障関係予算の二八・三パーセントという飛躍的増額による福祉年金の五割引き上げ、厚生年金の飛躍的増額、拠出制国民年金の五万円年金の実現を断行しました。

次いで四十九年度予算でも、二兆円という大減税による国民負担の軽減とあわせて、社会保障関係予算を三七・六パーセントも伸ばして、福祉年金を前年に引き続き五割引き上げたほか、厚生年金等の物価スライド制の採用に踏みきるなど、年金制度の画期的前進を達成したのは、田中内閣時代の後世に残る治績でした。

しかし、その反面、「日本列島改造論」をシンボル的な政策として登場した田中内閣が、内外情勢の急変の結果とはいえ、公共事業の大幅縮減を余儀なくされたのですが、これは自ら提唱した大政策よりも、インフレに苦しむ国民生活の安定を優先させた田中首相の勇気ある決断として、高く評価すべきでしょう。

それでも四十九年には、自然環境の保全と健康で文化的な生活環境の確保とともに、地価の安定をめざした「国土利用計画法」を制定し、また国土行政の総合中央官庁として「国土庁」を新設して、将来の発展への布石としたのでした。

さらに、正しい教育の振興充実と、人格、能力ともにすぐれた人材を教員に確保すべきだという自由民主党の多年の宿願にこたえて、義務教育職員給与を一般公務員より二五パーセント引き上げることを内容とする「義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法」をさだめたことも、画期的な文教政策であり、田中内閣の功績として見逃すことはできません。

次いで外交面でも、田中首相は、四十八年から四十九年一月にかけて米国、英国、フランス、西独など西欧三国、ソ連および東南アジア五カ国と、精力的に海外訪問を重ねて首脳外交を展開しました。このうちとくにソ連訪問は、現職首相としては鳩山訪ソいらい十七年ぶりのことで、ブレジネフ書記長と北方領土問題でねばり強い会談を行い、継続交渉の合意に達したのでした。このほか、同年四月には、日中航空協定に調印し、国交正常化以後の日中友好関係をさらに一歩前進させ、同十一月には、日米修交百十年にして初めて、現職大統領としてのフォード米大統領の訪日を実現させて、日米親善強化に大きく貢献するなど、数々の歴史に残る外交的足跡を残しました。

一方、自由民主党の党勢の面からみると、四十七年十二月の総選挙では、最終的には二百八十四議席の絶対安定勢力は確保したのですが、社会党が九十議席から百十八議席にまで復元しただけでなく、共産党にも十四議席から三十八議席への躍進を許すなど、党の組織行動力と末端日常活動などの面で、いくたの反省材料を残しました。しかし、翌四十八年七月の東京都議会選挙では、前回を上回る五十三議席を獲得して、「大都市での自民退潮」の予想をはね返し、次の躍進への基礎を固めたのでした。

ところが、石油危機による狂乱物価、社会的混乱の最なかに行われた四十九年七月の参議院議員選挙では、改選議席数七十に対して、当選は六十五議席にしか達せず、その結果、それまでの与野党議席差二十四名は七名に激減し、いわゆる「与野党伯仲時代」を迎えるにいたりました。

具体的な選挙結果の内容をみると、得票数では、投票率の高かったこともあって五百五十五万票増加し、また得票率でも四四・四パーセントを占め、前回より微増だったのですが、主として全国区での候補者の乱立など選挙作戦上の原因が響いて、この結果につながったものです。

いずれにせよ、この参議院選挙の結果が引き金となって、党内外から田中内閣や党執行部に対する批判が高まったので、田中首相は同年十一月二十六日、フォード米大統領来日の歴史的な国際行事の終了を待ち、自民党政治のより新しい展開を願って、潔く退陣の決意を表明しました。

こうして田中首相は、内外情勢の激変等によって事志と違い、雄図なかばにして政権の座を退いたわけですが、二年五カ月の田中内閣時代の意義は、日中国交正常化や福祉国家の基礎固めなど、わが国政治史に一頁を画するものがあります。