昭和39年12月1日~昭和47年7月5日

佐藤栄作総裁時代

池田首相の病気辞任のあとをうけて、昭和三十九年十一月九日、佐藤栄作氏が第五代総裁に就任し、佐藤内閣時代が幕をあけました。

佐藤内閣は、政治姿勢としては「寛容と調和」、政策的には「人間尊重と社会開発」を基本的目標に、七年八カ月にわたって政権を担当し、わが国政権史上最長記録を樹立するのですが、その間、戦後四半世紀にわたり民族的な悲願だった「沖縄の祖国復帰」という歴史的大偉業の達成をはじめ、いくたのめざましい政治的業績を残しました。

佐藤内閣時代の特色は、まず国内的には、池田時代に引き続き高度経済成長を定着させて、自由世界第二位の「経済大国」に発展させる一方、公害、環境破壊、過密、過疎などのひずみの発生や、国民の価値観の多様化、「多党化時代」の本格的到来等に対して、新しい政治的な対応を迫られた時代でした。また国際的にも、「激動の七〇年代」に際会し、ベトナム戦争の長期化による米国の威信の低下と国際情勢の流動化、世界の各国が予測もしなかったニクソン米大統領の訪中声明、ドルの衰弱を背景としたドル防衛の非常措置の発表等、相次ぐ"ニクソン・ショック"に見舞われるなど、さまざまの外交的試練に直面せざるを得ない時期でもありました。

しかし、佐藤内閣および自由民主党は、こうしたあらゆる困難を克服し、自由民主政治のより力強い前進を達成したのです。

佐藤内閣はまず、戦後歴代内閣が未処理のまま懸案となっていた諸問題の解決に取り組み、発足後わずか一年数カ月でこれらを全部片づけました。すなわち、敗戦後の農地改革で犠牲となった人びとに補償するための農地被買収者等の報償法の制定、ILO(国際労働機構)八十七号条約の批准と関係国内法の改正、日韓国交正常化等がそれです。このうちとくに、日韓基本条約の調印、請求権問題の決着を含む日韓国交正常化問題の一括解決は、足かけ十五年にもわたって未解決のまま残されていた重要な戦後処理であり、その歴史的な意義は、きわめて大きいといわねばなりません。

次いで佐藤内閣が直面した試練は、「四十年不況」の克服でした。このため佐藤内閣および自由民主党は、四十一年度予算の編成にあたって、それまで戦後一貫して堅持してきた超均衡財政主義からの大胆な転換をはかり、本格的な公債政策を導入して、社会開発、社会資本の拡充を中心に、対前年度比で一八パーセント増の積極予算を組み、大幅減税とあわせて景気のすみやかな回復をめざしたのです。

この財政経済政策は見事に成功し、予想以上に早く景気は好転して再び成長軌道に戻ったのみか、以後四十八年まで持続的な高度成長を可能にし、自由世界第二位の「経済大国」といわれる繁栄への道を切りひらいたのでした。その意味で、政策的決断は、歴史的な選択として高く評価されるべきものだったといえましょう。

こうして、政権初期の試練を克服した佐藤内閣は、いよいよ佐藤政治の本格的な展開に取り組み始めます。

まず内政面でみると、池田内閣時代には経済関係の立法および諸制度の整備に重点が置かれたのに対して、佐藤内閣時代は、急速な経済成長によるひずみ現象として発生した公害や、環境破壊から国民を守るための、「人間尊重」や「社会開発」的な政策が重視されたのが最大の特色でした。

四十三年の「大気汚染防止法」「騒音規制法」等の重要公害防止立法、「都市計画法」「清掃施設整備法」等の生活環境重要立法を手はじめに、四十五年七月には、総理府に「公害対策本部」の設置を閣議決定したのも、そうした一連の政策態度の現われだったのです。

そのピークに立つのが、同年十一月の第六十四臨時国会で、この国会全体を"公害対策国会"として位置づけ、十四件にのぼる重要な公害対策関係法を成立させました。その結果、国民の健康にかかわる公害を生じさせた事業活動に対する処罰規定とか、公害防止に要する費用の事業者負担の原則の確立など、わが国の公害対策制度を世界にも例を見ないほど整備充実させたことは、その所管官庁としての「環境庁」の設置(四十六年七月)とともに、佐藤内閣時代の画期的な功績として、後世に残るものです。

また、佐藤長期政権の施政の総合的シンボルとして、四十五年三月から半年にわたって大阪で開催された「日本万国博覧会」も、見逃すことはできません。「人類の進歩と調和」を基本テーマとして開かれたこの博覧会は、参加国七十七カ国、パビリオン百十六館、入場者数六千四百二十一万人という空前の成果をあげた世紀の大祭典であり、その後の人類社会の進むべき道を探究した世界史的意義と、国際間の相互理解と友好増進に寄与した国際的成果には、はかりしれないものがありました。

だが、翌四十六年八月には、「激動の七〇年代」の到来を告げる"ニクソン・ショック"の第一波がわが国を覆い、佐藤内閣は再び大きな試練に直面したのでした。金とドルの交換停止、一〇パーセントの輸入課徴金の徴収を中心とするニクソン米大統領の新経済政策の発表がそれです。これを契機として、国際通貨は一ドル三百六十円の固定相場制から事実上の変動相場制の時代へ移行し、同年十二月には、一ドル三百八円という円レートの切り上げが実施されました。金・ドル交換停止自体が、国際的な基軸通貨であるドルの地位を弱め、これを基盤としたIMF体制を揺るがす国際的な重大事件です。

ことに円レートの切り上げは、対米輸出が輸出総額の三分の一を占め、輸出契約のほとんどがドル建てとなっている日本経済に大きな打撃を与えるものでした。

このため自由民主党は、同年九月には、総裁直属機関として、「中小企業ドル対策本部」を設置して、ただちに対策の調査立案に着手し、為替管理の緩和、金融上の緊急措置、税制上の特別措置等を内容とする緊急対策要綱を作成し、政府にその実施方を申し入れました。同年秋の第六十七回臨時国会で成立をみた「国際経済上の調整措置の実施に伴う中小企業に対する臨時措置法」と、大型補正予算は、こうしたドル・ショックによる不況克服のための緊急措置でした。これらの積極的諸対策が着実に実効をあげ、わが国経済は、再び急速な回復過程をたどることができたのです。

こうして、内政面でも大きな功績をあげた佐藤内閣でしたが、その歴史的な治績は、なんといっても外交的成果でした。先述した日韓国交正常化を皮切りに、四十年には、ベトナム問題を中心にアジア問題が世界政治の注目をあびる中で、国連安保理事会の非常任理事国となり、また経済的な実力の高まりにつれて、わが国の国際的地位は急速に向上しました。

こうした情勢変化を背景に、佐藤首相は、前後五回にわたる訪米、東南アジア諸国、太洋州各国の歴訪を重ねて、発展途上国への経済技術協力の拡充強化につとめつつ、四十五年には日米安保条約の自動継続を決めました。しかし佐藤内閣の外交上の不滅の功績は、何といっても戦後二十年余にわたる国民の悲願であった沖縄・小笠原の祖国復帰を実現したことです。戦争で失われた領土を、平和な外交交渉によって回復するということは、世界の歴史にも例をみないことですが、佐藤内閣はそれを立派になしとげたのです。

佐藤首相は、就任と同時にこれを最大の使命とし、首相としては初めて沖縄を訪問したとき、「沖縄の祖国復帰なしには戦後は終わらない」と内外に宣言し、その後ジョンソン、ニクソン両米大統領と膝突きあわせて交渉すること数回、四十三年の小笠原諸島の復帰に続き、ついに四十七年五月には沖縄の祖国復帰が実現されたのでした。これは、佐藤首相が七年八カ月という長期政権担当中、誠意と精魂を傾けて粘り強く交渉を重ねた成果であり、まさに、佐藤内閣時代を飾る不滅の業績として、長く歴史に刻まれることでありましょう。

このほか「自由を愛し、平和に徹する」を基本姿勢としていた佐藤首相は、四十五年十月、国連創設二十五周年記念総会に出席して、日本の首相として初の国連演説を行い、非核三原則をはじめ「平和国家」としてのわが国の基本理念を広く世界に訴え、多大の感銘を与えたことも特筆すべき出来事でした。

一方、自由民主党の党勢の面からみると、三十五年の民社党結成、三十七年の公明党結成による本格的な「多党化時代」の到来と、公害、環境破壊等による高度経済成長政策に対する国民的評価の変化等で、より新しい政策的対応を迫られるにいたりました。

すなわち、四十二年の統一地方選挙で、東京都知事選挙で惜敗したのをはじめ、都道府県会議員選挙の得票率でも、多党化の影響を受け、三十八年の五〇・七パーセントから四八・五パーセントへと、低下を余儀なくされました。さらに翌四十三年七月の参議院議員選挙では、全国区二十一名、地方区五十一名の計七十二名という圧倒的多数の当選者を確保したものの、大都市部での得票率の退潮は明らかとなりました。

このため自由民主党は、都市における政策の抜本的な改革をはかるため、「都市政策大綱」を決定して、画期的な都市改造再建政策を打ち出すとともに、組織活動の面でも、組織委員会の中に都市対策部を新設して、活発な組織活動の展開に乗り出したのです。

こうした意欲的な努力の結果、翌四十四年七月の東京都議会議員選挙では、改選前の三十五議席から一挙に五十四議席に増大し、圧倒的な第一党の地位に復元することに成功しました。また同年十二月の総選挙では、社会党が百四十議席から一挙に九十議席に転落したのに対し、自由民主党は、三百三議席を占めて大勝し、自由民主党政治の基盤をますます安定させることが出来たのです。

かくして、池田内閣とともに「自民党全盛期」の政治を担当し、数々の偉業を達成した佐藤内閣でしたが、最大の政治目標だった沖縄復帰の歴史的記念式典を終えた後、第六十八通常国会の閉会を待って、四十七年六月十七日、佐藤首相は総理・総裁辞任の意思を表明し、内外から惜しまれながら、七年八カ月という記録的な長期政権の座を去ったのでした。