昭和32年3月21日~昭和35年7月14日

岸信介総裁時代

石橋首相の病気辞任のあとをうけて、岸信介氏が首相の座につき、昭和三十二年二月二十五日、岸内閣が発足しました。

以後、三年四カ月にわたる岸内閣時代の最大の政治的な業績は、なんといっても日米安全保障条約の全面改定をあげねばなりません。岸内閣は、左翼勢力の激しい集団暴力にも屈せず、従来の不平等な日米安保条約の改定に全精力をつぎこみましたが、この日米新安保条約こそは、その後の激動するアジア情勢の中でのわが国の安全確保と、世界の平和維持に貢献したばかりでなく、世界の驚異といわれる経済的繁栄の達成を可能にした大きな要因となったもので、その意味で岸内閣の果たした役割は、まさに歴史的な功績だったといえるでしょう。

しかし、岸内閣の功績はそれにつきるものではなく、岸時代の特色として、次の二つを見逃すことはできません。

そのまず第一は、自由民主党立党の成果の上に立って、党の政治的基盤を中央、地方を通じてがっちりと、日本の政治の中に定着させたことであります。第二には、真の独立日本建設の意欲に燃えて、占領時代色の脱皮をめざす新しい内外政治の本格的な推進に取り組んだことです。

このような自由民主政治の基礎固めと、内外政治の面で果たした新しい前進は、このあとに続く自由民主党政治の「栄光の時代」への礎石を築いたものとして、高く評価されるものだったのです。

首相就任直後の三月、第四回党大会で第三代総裁に選任されたとき、岸新総裁は、次のように就任の抱負を述べました。

「自由民主党の伸びが、たんに議席の増加としてではなく、また選ぶものと選ばれるものの間が、因縁のきずなによって結ばれるものでもなく、選ぶもの一人ひとりに、自由民主党を支持する理由がはっきりするようになること、また農民、勤労者、婦人、青年の方々に、真に信頼を託しうる近代的な政党として理解されるよう、党風の刷新と組織の拡充が行なわれなければならない」

このような党近代化と、幅広い国民的な組織政党をめざそうという岸総裁の意欲的な指導のもとに、自由民主党は、同年九月から十月にかけて、党役員・閣僚を総動員して全国遊説を行い、自由民主党の政治理念と政策を国民に訴えるとともに、党勢拡張のため「五百万党員」の獲得運動を全国的に展開しました。やがてこうした積極的な努力が実を結び、中央、地方を通じて、各種選挙での圧倒的な勝利をもたらし、自由民主党の政治的基盤は、確固不動のものとして安定するにいたったのです。

すなわち、三十三年五月の二大政党下初の総選挙では、自由民主党は、二百九十八議席(選挙後の入党十一名、繰り上げ当選三名を含む)を確保し、社会党の百六十七議席を大きく引き離し、絶対多数の体制を固めました。次いで翌三十四年六月の参議院議員選挙でも、社会党が、前回に比べ全国区、地方区あわせて十一議席も激減したのに対し、自由民主党は逆に十議席を増やし、非改選議席とあわせて百三十二議席となり、安定過半数を確保したのでした。

一方、同年四月の統一地方選挙では、福岡、茨城の両県を除く各都道府県知事選挙で社会党をおさえたほか、都道府県会議員は定員二千六百五十四名のうち千七百四十八名、市町村会議員にいたっては、保守系無所属議員を加えると、実に全議席の八五パーセントを超えるという躍進ぶりだったのです。

岸内閣は、このような政治的安定に自信を得て、進歩的国民政党の自覚のもとに、内外政策の力強い推進に乗り出しました。それらのうち、岸内閣時代の政治的業績として、とくに見逃せないのは、次の諸施策です。

まず内政面では、

などが、とくにめざましい成果だったでしょう。

また外交面では、

などの功績を見逃すことはできません。

国連加盟後、なお日の浅いわが国が、三十二年十月には国連安全保障理事会の非常任理事国、三十四年十月には同経済社会理事国に選ばれたのも、そうした外交努力の一つの成果だったといえるでしょう。

しかし、岸内閣時代の後半は、教職員の勤務評定問題、警察官職務執行法の改正問題等をめぐって、社会党、総評、共産党などこれに反対する左翼勢力と鋭く対立し、やがて日米安全保障条約の改定問題にいたって、自由民主陣営と左翼陣営との対決は頂点に達したのです。

このように政局が、二つの勢力にわかれて激突し、はげしく相争った原因としては、まず第一に、当時の冷戦時代を背景に、東西両陣営の国際的対立がそのまま国内政治に反映したこと、第二には、「独立体制確立」の立場から、行き過ぎた占領行政のより現実的で、国情に即した是正に積極的に取り組もうとした岸内閣の施政に対して、観念的なイデオロギーや、社会主義政党としての立場に固執する社会党など左翼勢力が、教条的な対決行動に出たことなどが指摘できるでしょう。

だが、それにしても許せないのは、これら一連の問題を通じて、社会党、共産党などの左翼政党が、院内での議事引き延ばし、審議拒否、座り込みなどの実力行使はいうにおよばず、総評、全学連などが院外での大規模な集団デモ、違法スト、はては国会乱入など手段を選ばぬ集団的暴力行動によって、国政を左右しようとする反議会主義的、暴力主義的な動きに出たことです。

その結果、とくに三十五年五月の衆議院本会議での、新安保条約その他の関係案件の審議に当たっては、警官隊の国会内導入という異例の非常手段を講じて、これら勢力の暴力を排除しなければなりませんでした。そればかりでなく、翌六月には、アイゼンハワー米大統領の来日準備のため、羽田空港に着いたハガチー大統領新聞係秘書に対して、デモ隊が乱暴を働き、ついに同大統領の来日が不可能になるという国際的不祥事件までひき起こしたのです。さらに、全学連を中心とする暴力デモ隊が国会構内に乱入した際には、女子学生一名が死亡、デモ隊、警官隊の双方に数百人にのぼる負傷者を出す流血の惨事まで引き起こし、わが国議会史上に大きな汚点を残したのです。

このような左翼陣営の破壊活動に対して、自由民主党は、勤評騒動、警職法騒動、安保騒動のたびごとに、党組織、広報活動の総力をあげて国民運動を展開し、良識ある国民大多数の理解と支持を集めることができました。

さしもの「六〇年安保騒動」も、六月十九日、参議院での条約批准承認案件の自然成立とともに、潮がひくように沈静化したのですが、その間、約半年余にわたり社会党、総評、共産党など左翼陣営の集団的暴力行為に屈することなく、毅然として、安保改定の所信を貫いた岸内閣および自由民主党の決断は、長く歴史に残る功績だったといわねばなりません。

こうして、画期的な安保条約改定の大事業をなしとげた岸首相は、それを機会に「人心一新」と「政局転換」の必要性を痛感し、六月二十三日、退陣の決意を表明したのでした。