平成24年10月1日~令和2年9月14日

第二期安倍晋三総裁時代

与党復帰へ雪辱を期す衆院選が目前に迫っていました。谷垣総裁が総裁選不出馬を表明。平成二十四年秋の総裁選には石原伸晃幹事長、石破茂元防衛相、町村信孝元官房長官、林芳正政調会長代理に加え、健康を回復した安倍晋三元首相も立候補しました。九月二十六日の投票では、第一回投票で安倍氏が百四十一票(議員票五十四票、党員票八十七票)、石破氏が百九十九票(議員票三十四票、党員票百六十五票)、町村氏が三十四票(議員票二十七票、党員票七票)、石原氏が九十六票(議員票五十八票、党員票三十八票)、林氏が二十七票(議員票二十四票、党員票三票)を獲得し、上位二人の決選投票(国会議員による投票)となり、安倍氏百八票、石破氏八十九票で、安倍氏が第二十五代自民党総裁となりました。

長い自民党の歴史の中でも一度辞任した総裁が再び返り咲いたのは安倍氏が初めてです。経験豊富で、しかも雌伏の時に努力を重ねてきた安倍氏の再登板を多くの国民が歓迎しました。

安倍総裁は野田佳彦首相に、混迷した日本の社会状況を打ち破るため、早期の解散を求めます。それに対し、十一月十四日の党首討論で野田首相は解散を明言しました。十二月十六日、師走の投開票となった選挙は自民党が二百九十四議席を獲得、政権与党だった民主党は僅か五十七議席に留まり、ここに三年三カ月ぶりに政権奪還を果たしたのでした。

しかし、勝利の余韻に浸っている時間はありません。「われわれの使命は危機を突破することだ。経済はデフレを脱却して円高を是正し、安全保障、外交の危機を突破する能力を持った人に集まってもらう」と語った安倍総裁は、十二月二十六日に召集された特別国会で首班指名を受け、「危機突破内閣」と銘打って第二次安倍内閣を発足させます。麻生太郎元首相を副総理兼財務相、谷垣禎一前総裁を法相、連立政権を組む公明党からは太田昭宏前代表を国交相に据え、重厚布陣で固めました。

第二次安倍内閣は年末年始の休みも返上して、国政一筋に邁進しました。遅れている東日本大震災からの復旧・復興、民主党政権下で毀損した日米関係を始めとする外交の立て直しと、緊急を要する難題が山積していました。安倍首相は、まず疲弊している日本経済の再生を目指し、「アベノミクス」と呼ばれる経済ビジョンの遂行を最優先に掲げました。大胆な金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢に見立て、これらを果敢に実行すれば必ず日本経済は再生すると国民に訴えます。

平成二十五年二月には日本銀行と「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携について」という共同声明を出し、この中で初めて二パーセントの物価安定の目標を導入し「これをできるだけ早期に実現することを目指す」とうたいました。翌月、日銀総裁に黒田東彦氏が就任します。黒田総裁は直ぐに大幅な金融緩和を実施しました。野田前首相が解散宣言をした時から政権交代は確実視され、自民党への期待が大きかったことから株価は上昇し、過度な円高から円安にカーブが切られていましたが、日銀のサプライズとも言える大幅な金融緩和によって、さらに日本経済が刺激され、アベノミクスを大きく後押ししました。

その結果、バブル崩壊から四半世紀、デフレに沈んでいた日本経済は大きく浮上します。株価は第二次安倍内閣発足直後の八千円台から、平成二十七年には二万円を超える水準にまで回復します。平成二十六年度決算は史上最高益を記録する企業が続出、勤労者の賃上げも実現しました。加えて、法人税減税、税収の大幅な伸びと、蛮勇を振るう安倍首相の手腕が今日に至るまで日本経済に大きな果実を生み出しています。

経済再生に力点を置きつつ、安倍首相の真骨頂は外交、安全保障でも存分に発揮されていきます。第二次安倍内閣発足直後の平成二十五年一月、安倍外交がスタートします。初の外遊先に選んだのはベトナム、タイ、インドネシアの東南アジア三カ国でした。これは祖父である岸信介元首相が半世紀前、第二次世界大戦の記憶が残る中で、同じく最初の外遊先として東南アジア六カ国を訪問し、日本と密接な地域との信頼回復を図る意図に倣ったとも言われています。その後、安倍首相は、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国全てを回り、各国首脳勢との個人的信頼関係の深化に努めました。

安倍外交の基軸は「地球を俯瞰する外交」、すなわち「単に周辺諸国との二国間関係だけを見つめるのではなく、地球儀を眺めるように世界全体を俯瞰して、自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった、基本的価値に立脚し、戦略的な外交を展開していく」というものです。安倍首相は、その後、東南アジア諸国のみならず、世界中に地球儀を俯瞰する外交を展開していきました。中東、欧州、アフリカ、南米と、平均して一カ月に一回の割合で頻繁に外国へ飛び、しかも、外遊を単なるトップ会談で終わらせず、アベノミクスと直結させて、日本の優れたインフラ技術、食文化やポップカルチャーを売り込むというオリジナル外交を進め、存在感を高めていきました。

一方、安倍首相は民主党政権下で悪化した日米関係の再構築にも努めます。二月下旬、就任後初の訪米ではオバマ大統領との間で、日本のTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加問題に加え、緊迫するアジア太平洋地域の安全保障環境について意見が交わされ、幅広い分野での日米間の協力強化を確認しました。

四月下旬には北方領土問題を抱えるロシアを訪問しました。プーチン大統領との会談では、経済協力、文化・人的交流の促進に加え、安全保障分野において「2プラス2」設置で合意しました。日本にとって2プラス2は、アメリカ、オーストラリアに続いてロシアが三カ国目となります。平和条約を締結していない国との2プラス2は異例のことでした。

七月二十一日、第二次安倍内閣発足後初の国政選挙となる参院選が行われました。開票の結果、自民党は実に選挙区、比例代表合わせて六十五議席を獲得し、自公連立政権で参院でも過半数を占めることができました。その結果、参院では政権与党が過半数を下回るという「ねじれ現象」が解消されました。

参院選後の九月、日本中が喜びに沸きます。東京への二〇二〇年の夏季五輪・パラリンピック招致が成功したのです。東京で開催されれば昭和三十九年以来、実に五十六年ぶりとなります。予測不可能な接戦と見られていた招致レースで、東京がトルコのイスタンブールとスペインのマドリードに圧勝した理由は、安倍首相を先頭に官民挙げてのオールジャパンによる機運の盛り上がりにあったと言えましょう。アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会での最終プレゼンテーションで使われた日本ならではのゲストへの細やかな心遣いを表す「おもてなし」は世界中で通用する日本語となりました。さらに、昭和三十九年の東京五輪を体験した世代からは、もう一度、オリンピックを見ようと、そこに生き甲斐を見出す社会的現象も生まれました。

それだけではありません。訪日外国人も劇的に増加し、二〇二〇年までに年間訪日外国人二千万人という目標は達成しつつあります。五輪・パラリンピック招致がアベノミクスを推進する大きな起爆剤ともなっていることは言うまでもありません。

経済重視の安倍首相ですが、安全保障でも大きな成果を上げています。平成二十五年十二月、安全保障会議設置法を改正、これまでの安全保障会議が国家安全保障会議に再編され、外交・安全保障の司令塔となる、いわゆる日本版NSCが発足しました。これは第一次安倍内閣時からの懸案でした。省庁の縦割り構造を排し、外交・安全保障に関する情報を一元化させ、首相、官房長官、外相、防衛相の四大臣会合を頂点に、それらを分析、検証して即応していくというものです。翌年一月七日は、国家安全保障会議の事務局である国家安全保障局が設置され、初代局長には安倍首相の外交ブレーンである谷内正太郎元外務事務次官が就任しました。

日本では長い間、集団的自衛権について、国際法上は保有しているが、憲法上は行使が許されないと解釈されてきました。そのため、平成二十六年七月一日、従来の憲法解釈を変更し、限定的な集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことは、日本の安全保障政策の歴史的転換点と言っていいほどの画期的な出来事でした。この閣議決定の内容を裏打ちし、具現化するため、翌平成二十七年の通常国会で安倍首相は平和安全法制を成立させました。これにより、日本を取り巻く安全保障環境が激変する中、国民の生命と財産を守るため、憲法の許す範囲内で、同盟国たる米国や価値観を共有する国々と連携して日本はもとより、国際社会の平和と安全を確保することが可能となりました。

平成二十六年九月、安倍首相は政権発足以来、初の内閣改造に踏み切ります。六百十七日を記録した第二次安倍内閣は、同じ顔触れのまま続いた内閣としては戦後最長でした。内閣改造では、政権運営の中核を担ってきた菅義偉官房長官をはじめ、麻生太郎副総理兼財務相、岸田文雄外相、甘利明経済再生相、下村博文文科相、太田昭宏国交相が留任、実務重視の人事となりました。さらに「二〇二〇年に指導的地位に占める女性の割合三〇パーセント」を達成することを公約に掲げる安倍首相は、「隗より始めよ」として過去最多に並ぶ女性閣僚五人を抜擢、加えて地方の活性化と少子高齢化に伴う人口減少を抑えるための「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を具現化するため、石破茂幹事長を地方創生担当相に起用しました。

他方、平成二十六年四月の消費税率の五パーセントから八パーセントへの引き上げは、日本経済に少なからず影響を与えました。このまま予定通り平成二十七年十月に消費税率を一〇パーセントに引き上げれば、好調な景気が腰折れする恐れがあると判断した安倍首相は、再引き上げを一年半延長し、平成二十九年四月にすることを発表します。併せて、その決断の是非とアベノミクスの継続可否を国民に問うとして、十一月二十一日に衆院を解散しました。解散後、安倍首相は「この解散は、『アベノミクス解散』であります。アベノミクスを前に進めるのか、それとも止めてしまうのか。それを問う選挙であります。連日、野党は、アベノミクスは失敗したと批判ばかりを繰り返しています。私は、今回の選挙戦を通じて、私たちの経済政策が間違っているのか、正しいのか、本当に他に選択肢はあるのか、国民の皆様に伺いたいと思います」と訴えました。

定数是正で衆院の議席数が四百八十から四百七十五に減ったにも関わらず、十二月十四日の開票の結果、自民党は二百九十一議席を獲得し、連立政権を組む公明党の三十五議席を併せて、与党が全体の三分の二(三百十七議席)を超え大勝しました。消費税率の再引き上げ延期、アベノミクスのいずれも民意の支持を得たとして、暮れも押し迫った十二月二十四日、安倍首相は第三次安倍内閣を発足させました。

平成二十七年四月末からの大型連休中、安倍首相は戦後七十年に合わせてアメリカを訪問し、オバマ大統領との間で「日米共同ビジョン声明」を発表しました。そこでは「第二次世界大戦終戦から七十年を迎える本年、我々二国間の関係は、かつての敵対国が不動の同盟国となり、アジア及び世界において共通の利益及び普遍的な価値を促進するために協働しているという意味において、和解の力を示す模範となっている」と明記され、引き続き、日米間の連携を世界規模で深めていくことが示されました。

さらに訪米中、安倍首相は上下両院合同会議において四十五分間にわたって英語で熱弁を振るいました。五十四年前の池田勇人首相以来となる米国議会での演説であり、しかも上下両院合同会議の演説は日本の首相としては初めてのことでした。この中で安倍首相は、戦後日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に歩みを刻んできたこと、戦後世界の平和と安全はアメリカのリーダーシップなくしてあり得なかったこと、そして最後に「私たちの同盟を、『希望の同盟』と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか」と訴え、拍手喝采を浴びました。歴史的に大きな意味を持つ訪米となりました。

終戦七十年を迎えた平成二十七年夏のことです。終戦記念日前日の八月十四日、安倍首相は「戦後七十年談話」を閣議決定し、記者会見で発表しました。

談話は三千四百字あり、戦後五十年の村山談話、戦後六十年の小泉談話に比べ三倍の量があります。

安倍首相は当日の記者会見で談話全文をゆっくりと落ちついた口調で読み上げたことで、明治以来の日本政治の流れ、その内容がより分かりやすく伝わりました。

安倍首相は談話に侵略、反省、おわびという先の大戦に関するキーワードを全部取り入れましたが、もっとも強調したかったのは日本を理解してくれる国々への感謝であり、戦後日本の歩みと未来への展望でした。

とりわけ未来については「先の世代の子供たちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という言葉で、安倍首相が先の大戦についての政治責任、総括はすべて負う決意が窺えました。

「私はこれからも、謙虚に、歴史の声に耳を傾けながら、未来への知恵を学んでいく姿勢を持ち続けたい」。談話についての記者会見で、安倍首相がこう述べたことは非常に印象的でした。

平成二十七年九月八日、総裁任期満了に伴い、三年ぶりに自民党総裁選が告示されましたが、安倍首相以外立候補者はなく、無投票で安倍総裁の再選が決まりました。

この三年間で東京五輪招致成功、平和安全法制成立といった成果を上げ、参院選、二度の総選挙に勝ち抜き、あと三年の総裁任期を得たわけです。任期を全うすれば一次政権時代を含め、歴代自民党政権では通算六年九カ月に及び、佐藤栄作首相に次ぐ歴代二位の長期政権も視野に入ってきました。

これからの三年間の政策目標について安倍首相は「デフレ脱却はもう目前。アベノミクスは第二ステージへと移る。目指すは一億総活躍社会」「ターゲットは戦後最大の経済、戦後最大の国民生活の豊かさだ。国内総生産(GDP)六百兆円の達成を明確な目標として掲げたい」と経済最優先を訴えました。

安倍総裁の下、平成二十七年十一月十五日、自民党は立党六十年を迎えました。立党の精神である「政治は国民のもの」を胸に、自民党の挑戦は、まだまだ続きます。