平成18年10月1日~平成19年9月23日

第一期安倍晋三総裁時代

平成十八年九月二十日に行われた総裁選は、官房長官の安倍晋三氏が四百六十四票(議員票二百六十七票、党員算定票百九十七票)を集め、麻生太郎氏の百三十六票(議員票六十九票、党員算定票六十七票)、谷垣禎一氏の百二票(議員票六十六票、党員算定票三十六票)を大きく引き離して、第二十一代総裁に選出され、二十六日、「美しい国づくり内閣」と銘打った第一次安倍内閣が発足しました。

安倍首相の言う「美しい国」の姿とは「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」「自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国」「未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国」「世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国」を指します。

五十二歳、初の戦後生まれ、加えて田中角栄元首相の五十四歳を抜いて戦後最年少の宰相誕生です。安倍首相は、小泉前内閣の官房副長官当時、北朝鮮による日本人拉致事件に毅然とした態度を示したことで国民的人気が高まり、その後、当選三回で自民党幹事長に起用されると、国政選挙における候補者選考に公募制度を本格導入するといった大胆な党改革を推し進め、常にポスト小泉の一人として注目されてきました。

小泉前首相の後継に選ばれたことは聖域なき構造改革の深化・加速を意味することでもありました。

第一次内閣は、老壮青のバランスを重視したものでした。財務相には尾身幸次氏、文科相には伊吹文明氏とベテランを充て、総裁選で戦った麻生氏は外相に再任、民間からは内閣府政策統括官を務めた政策研究大学院大学の大田弘子教授を経済財政相に起用しました。さらに首相補佐官を従来の二名から五名に増員して、いわゆる「チーム安倍」をつくり、官邸機能の強化を図りました。

十月、安倍首相は初の外国訪問先に、中国、韓国を選びました。初外遊に中国を訪問したのは安倍首相が初めてです。また韓国を初外遊に選んだのも宮澤喜一元首相以来のこととなりました。

中国では胡錦濤国家主席、温家宝首相、呉邦国全人代委員長と会談し、胸襟を開いて日中関係の未来について語り合いました。今後、日本と中国が、アジアと世界の平和と安定、繁栄のために協力し合い、そのために互いの共通利益を拡大して、日中関係をさらに発展させていくため、「共通の戦略的利益に立脚した互恵関係」を構築することで合意しました。これまでの「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」から「戦略的互恵関係」へと両国関係を格上げさせたのでした。

続いて安倍首相は、次の訪問国である韓国へ飛び、盧武鉉大統領と会談しました。日韓関係は東アジア地域、そして国際社会にとっても極めて重要であり、基本的価値を共有するパートナーとして、未来志向の友好関係構築に努力していくことが確認されました。併せて拉致問題を含む北朝鮮問題全般についても意見を交わし、引き続き、これらの解決に向けて協力していくことで一致しました。

この日韓首脳会談の直前、北朝鮮が唐突に核実験を実施したと発表します。安倍首相は帰国後、すぐに北朝鮮籍船舶の入港禁止、北朝鮮からの輸入と北朝鮮国籍の人物の原則入国禁止を柱とする追加制裁を断行しました。そのスピーディーで的確な対応は、国際社会からも高く評価されました。

一方、日米関係は、すでに小泉前首相とブッシュ大統領が鉄壁とも言うべき個人的信頼関係を構築していたこともあり、米国は安倍首相の誕生を歓迎しました。訪米は翌年四月に実現しますが、この時、ブッシュ大統領との間で、「かけがえのない日米同盟」を確認し、さらにアジア、そして国際社会における諸問題に協力して取り組んでいくことで合意しました。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」をスローガンに掲げました。戦後長きにわたって続いてきた「憲法を頂点とした行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み」は二十一世紀の時代の大きな変化に対応できなくなっており、それらを原点に遡って大胆に見直すと訴えたのです。安倍首相は歴代政権が成し得なかった難題に果敢に挑戦していきました。

最初に青少年の道徳心や規範意識、学ぶ意欲、家庭や地域の教育力の低下が懸念される中、安倍首相は教育改革に取り組みます。その第一弾が十二月の改正教育基本法の成立でした。「教育の憲法」と言われる教育基本法の改正は、昭和二十二年三月に制定されて以来、初めてのことです。

平成十二年十二月に「教育改革国民会議」が出した最終報告の中で、すでに教育基本法の見直しの必要性が提言され、これを契機に文科省の中央教育審議会、与党内で様々な角度から改正に向けた議論が続けられてきました。改正教育基本法では「前文」に「公共の精神を尊び」との一文を加え、「教育の目標」の中に「豊かな情操と道徳心」を育むこと、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との文言が新たに盛り込まれました。

さらに教育環境の時代的変化に対応するため、これまではなかった生涯学習や家庭教育に関する規定も設けられました。第二弾として、平成十九年六月に教育改革関連三法、すなわち、義務教育の目標を規定した改正学校教育法、教育委員会の制度見直しを軸とする改正地方教育行政法、教員免許の更新制を盛り込んだ改正教育職員免許法を成立させました。

教育基本法の改正と併せて実現したのが、これまで内閣府の外局として扱われてきた防衛庁を「省」に移行させるための防衛庁設置法等の一部を改正する法律案の成立です。これにより、平成十九年一月九日、防衛庁設置法が防衛省設置法となり、防衛庁は昭和二十九年七月一日の発足以来、五十年余にして「防衛省」として新たなスタートを切りました。

それに伴って、防衛庁長官は「防衛大臣」となり、これまで在日米軍や自衛隊が使用する防衛施設の取得、建設、管理、その周辺対応を所管してきた防衛施設庁も統合・廃止されました。自衛隊法も改正され、自衛隊の国際平和協力活動が「付随的任務」から「本来任務」に格上げされました。

防衛省移行記念式典で安倍首相は「国防と安全保障の企画立案を担う政策官庁として位置付け、さらには、国防と国際社会の平和に取り組むわが国の姿勢を明確にすることができました。これは、とりもなおさず、戦後レジームから脱却し、新たな国造りを行うための基礎、大きな第一歩となるものであります」と強調しました。

平成十九年五月には憲法改正のための詳細なルールを定めた国民投票法が成立し、公布されました。現行憲法には九六条一項において「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」と、改正規定はあるものの、改正手続きに関して記された法律がありませんでした。国民投票法は、この条項に肉付けをし、改正手順や要件を具体的に定めたものです。

安倍首相は就任後初となる所信表明演説でも憲法改正に言及し、「まずは、日本国憲法の改正手続に関する法律案の早期成立を期待します」と明言しています。憲法改正は祖父である岸信介元首相の悲願でもあり、安倍首相にとっては政治家として生涯のテーマと言えます。その意味で国民投票法の成立は、安倍首相の憲法改正への熱意を示すものとしても、歴史的にも意義深いものです。

在任中、安倍首相は総裁選の公約でも掲げた日本版NSC(国家安全保障会議)設置に向け民間有識者を集め「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」を発足させました。ここでの検討を受けて関連法案を国会に提出し、さらに集団的自衛権に関する個別事例を研究するための私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置し、集団的自衛権の行使容認への道筋を示しました。

加えて、公務員の天下り規制のための公務員制度改革関連法、年金支給漏れの時効撤廃を盛り込んだ年金時効特例法、「消えた年金記録」問題に対処するため社会保険庁の解体、非公務員型の特殊法人「日本年金機構」の新設を柱とする社会保険庁改革関連法の成立にも力を注ぎました。

一方で、思わぬ政治的逆風にも晒されました。小泉内閣時代、郵政民営化に反対した議員の復党問題、「消えた年金記録」問題に対する世論の厳しさに加え、閣僚の相次いだ「政治とカネ」の不祥事が安倍首相を襲いました。

こうした中で行われた平成十九年夏の参院選で、自民党はかつてない苦戦を強いられました。七月二十九日の投開票の結果、自民党の獲得議席は三十七議席、連立パートナーである公明党も振るわず、非改選議席を含め参議院での過半数を割り込みました。民主党は初めて参議院の第一党となりました。これにより衆議院では与党が、参議院では野党が多数を占める「ねじれ」が生じました。

この結果を受け、安倍首相は、厳しい世論の声を真摯に謙虚に受け止め、反省すべきは反省しながらも、心機一転、「改革を止めてはならない」「戦後レジームからの脱却、その方向性を変えてはならない」との決意で、人心一新を図るため、党三役人事と内閣改造に踏み切りました。

八月二十七日、第一次安倍改造内閣が発足しました。外相に町村信孝氏、財務相に額賀福志郎氏、防衛相に高村正彦氏と安定感あるベテラン勢を据え、総務相には増田寛也・前岩手県知事を起用しました。党三役では、幹事長に麻生外相を充て、重厚な布陣を敷きます。

しかし、この頃から安倍首相の体調が悪化していきました。九月十日に召集された臨時国会での所信表明演説の二日後、安倍首相は退陣表明を行い、翌日、検査入院しました。

安倍首相の在任期間は一年間という短い期間ではありましたが、数々の業績を見れば、初心である「戦後レジームからの脱却」の第一歩を刻んだことは高く評価されます。