平成13年4月24日~平成18年9月30日
平成十三年三月十三日に行われた党大会において、森首相の口から自らの出処進退に関する発言が出たことで、党内は総裁選挙に向けて動き出しました。真っ先にポスト森に手を挙げたのが小泉純一郎氏でした。
小泉氏にとって総裁選への立候補は三度目でした。続いて橋本龍太郎元首相が再登板に意欲を見せ、さらに亀井静香政調会長、麻生太郎経済財政担当相も相次いで出馬を表明します。大きな焦点は景気対策と財政構造改革への取り組みに加え、特に世論からの関心を集めたのが党改革でした。
KSD事件、外務省機密費流用事件によって国民の政治、行政不信が高まっていました。そのため、党内でも強い危機感が出始め、全国の都道府県連からも「開かれた総裁選」を求める声が上がりました。
その結果、党大会に代わる両院議員総会における総裁選挙での都道府県連の持ち票が、これまでの一票から三票に拡大されました。
四月二十四日、党大会に代わる両院議員総会における総裁選が行われました。小泉氏は過半数を上回る二百九十八票を獲得し、橋本氏の百五十五票、麻生氏の三十一票を大きく引き離して第二十代総裁に選出されました。(亀井氏は立候補を辞退)二十六日、第一次小泉内閣が発足します。
組閣も極めて異例でした。小泉首相は、派閥の意向にとらわれず、適材適所に徹した人事を断行します。女性閣僚は過去最高の五人、民間からは慶應義塾大学の竹中平蔵教授を経済財政政策担当相に、文化庁の遠山敦子元長官を文科相に抜擢しました。若手の登用も目立ちました。一方で森前内閣から七閣僚を留任させ、実務重視の手堅さも見せました。
発足直後に行われた世論調査では内閣支持率が八〇パーセント台にまで達し、期待の高さが表れました。小泉首相は五月七日の所信表明演説で「恐れず、ひるまず、とらわれず、聖域なき構造改革を断行する」と述べ、さらに最重要課題である経済再生については「構造改革なくして景気回復なし」との決意を示しました。
小泉人気はすさまじく、自民党本部のグッズ販売コーナーには、小泉首相をあしらった携帯ストラップやポスター、フィギュアなど、いわゆる小泉グッズを購入しようという人の行列ができました。
小泉内閣発足後初の大型選挙である七月の参院選では小泉旋風を巻き起こします。内閣支持率は高水準を維持していたものの、景気は悪化の様相を見せ、構造改革の痛みに対する不安や反発も出ていましたが、七月二十九日の投開票の結果、自民党は改選議席過半数以上の六十四議席を獲得し、連立政権を組む公明党も健闘しました。保守党は党首の扇千景国交相だけが当選しましたが、与党三党で非改選も合わせた全議席の過半数を上回ることができました。
参院選後の八月十日、党大会に代わる両院議員総会では小泉総裁が無投票再選を果たします。小泉総裁は、「自民党こそが、新しい時代に新たなかたちで日本を発展させる最大の勢力、責任ある政党だ」と訴えました。
小泉外交は、就任二カ月後の六月三十日、ワシントン郊外の大統領別荘であるキャンプ・デービッドにおいてブッシュ大統領との日米首脳会談からスタートしました。会談のために、キャンプ・デ--ビッドに招かれたのは、ブッシュ政権誕生後はイギリスのブレア首相だけであり、日米同盟の絆の強さを内外にアピールする格好となりました。ブッシュ大統領は小泉首相が取り組もうとする構造改革を全力でサポートすると語り、二人は初対面であるにも関わらず、太平洋をはさんだ同盟国同士のリーダーとして、揺るぎない個人的信頼関係を構築することができました。
九月十一日、世界に衝撃が走ります。ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた二機の旅客機が相次いで突っ込み、二つのビル棟が炎上・倒壊し、ワシントンの国防総省も別の旅客機の突入を受け、ペンシルベニア州でもハイジャックされたと見られる旅客機が墜落したのです。この大規模同時多発テロ事件は世界を震撼させました。
一報を受け小泉首相は「極めて卑劣かつ言語道断の暴挙であり、このようなテロリズムは決して許されるものではなく、強い憤りを覚える」との声明をただちに発表します。翌十二日には首相官邸で安全保障会議が開かれ、邦人保護を始め六項目の対処方針が決定されました。ここで大きな課題として浮上したのが、米国が軍事報復を行った場合の対応でした。日本政府としては、憲法上、米軍の武力行使と一体化しない範囲内で自衛隊が輸送や医療面で支援するのは可能との立場を採っていましたが、その支援の前提となる法律は整備されていません。そこで新規立法を設けることとなります。
十九日には、テロ対策関係閣僚会議が開かれ、米軍の後方支援のための自衛隊派遣を中心とする七項目に及ぶ具体的な措置を発表しました。これを踏まえ、小泉首相はワシントンに飛び、その内容をブッシュ大統領に伝えました。
十月五日、テロ対策特措法案が国会に提出されました。併せて、自衛隊が在日米軍基地を警備できるようにする自衛隊改正法案、不審船停止のための船体射撃を認める海上保安庁法改正案も提出され、テロ対策関連三法案が出揃います。民主党との修正協議は難航を極めましたが、十八日に衆院を通過、二十九日に参院で賛成多数で可決、成立し、十一月二日に施行されました。これに基づき、海上自衛隊の護衛艦と補給艦がインド洋に派遣され、アルカイダを始めとする国際テロ集団の掃討作戦に当たる米英軍中心の艦艇に、燃料や水の補給を行うこととなりました。
戦後日本におけるアジア外交の歴史的節目とも言えたのが、平成十四年九月十七日の小泉首相の北朝鮮電撃訪問でした。戦後、日本の首相が国交のない国を訪れるのは昭和三十一年の鳩山一郎首相によるソビエト連邦訪問、昭和四十七年の田中角栄首相による中国訪問に次いで三度目です。ただ、これらは国交正常化交渉の総仕上げであったのに対し、小泉首相の訪朝は北朝鮮による日本人の拉致問題の真相究明と、その国家的犯罪に対して北朝鮮に謝罪を求めるという極めて特異なものでした。
平壌に降り立った小泉首相は、金正日朝鮮労働党総書記との会談に臨みます。北朝鮮から提供された拉致被害者の安否は、日本政府が認定した八件十一人のうち二件四人が生存、五件六人が死亡、他の一人は入国記録なし、日本側リスト外の女性一人が生存、日本人男性二人が死亡という衝撃的な内容でした。小泉首相は強く抗議し、生存者と家族の早急な帰国、死亡したとされる拉致被害者の調査継続を求めます。
金総書記は国家的犯罪であったことを率直に認め、謝罪しました。これを受け、国交正常化交渉の再開、日本による国交正常化後の経済協力、拉致問題を「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」として、「このような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとること」が記された日朝平壌宣言が発せられました。
翌月十五日、拉致被害者五人の帰国が実現し、さらに平成十五年五月二十二日、再び小泉首相は北朝鮮の地を踏み、金総書記と会談しますが、拉致被害者の新たな安否情報は得られませんでした。北朝鮮に残された家族、死亡したとされる拉致被害者の真相究明を含め、拉致問題は現在に至るまで日本が抱える重要な外交課題として残りました。
他方、内政では国民からの強力な支持をバックに、小泉首相はいわゆる構造改革に着手します。その原動力となったのが平成十三年一月に内閣府に設置された経済財政諮問会議でした。小泉首相は、ここを積極活用し、経済財政運営の指針を示す「骨太の方針」を打ち出して官邸主導の予算編成を進めました。
平成十四年九月三十日には「構造改革の路線を確固たる軌道に乗せる」ため、内閣改造を行います。党三役や主要閣僚が留任する中、注目された金融担当相は竹中財政政策担当相が兼任することとなりました。竹中氏は小泉首相との二人三脚で金融機関の不良債権処理に全力を注ぎ、金融面からの構造改革を進めていきました。
「民間でできることは民間に」と訴える小泉首相にとって、構造改革の試金石とされたのが、特殊法人改革でした。中でも巨額な負債を抱え込んだ道路関係四公団の民営化は、特殊法人改革の天王山でした。
平成十三年十二月十九日、特殊法人等整理合理化計画が閣議決定されます。NHKを除く全ての特殊法人の形態が抜本的に変わることとなったのです。
平成十四年六月二十一日には今後の高速道路建設の方向性や道路関係四公団の民営化の内容について検討するため、民間有識者七人で構成された「道路関係四公団民営化推進委員会」が発足します。しかし、そこでの議論は紛糾続きでした。
民営化後の高速道路について、建設続行派と建設歯止め派とで対立が激化したのです。その結果、十二月六日、異例の多数決により最終報告書が了承されました。これをベースに国土交通省と与党との間で民営化に向けた法案の策定作業が進められ、平成十六年六月二日、民営化関連四法案が成立に至りました。小泉政権発足から実に三年越しの決着でした。こうして平成十七年十月から道路関係四公団は、六高速道路会社に民営化されたのでした。
構造改革の一環として、小泉首相は「地方でできることは地方に」をスローガンに、国庫補助負担金の廃止・縮減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直しを「三位一体」で進める「三位一体の改革」にも取り組みました。過去の地方分権一括法の施行により国の機関委任事務が廃止され、国と地方公共団体との関係性は対等となりましたが、財政面では国に依存したままの状態が続いていました。言わば、三位一体の改革は「第二次地方分権」の意味合いを持っていました。具体的な削減内容、その規模に関し、関係省庁からの激しい抵抗もあり、何度も試練に直面せざるを得ない状況に陥りましたが、小泉首相の強力なリーダーシップにより、結果的には目標としていた平成十六~十八年度の三年間で約四兆七千億円の国庫補助負担金の削減と、約三兆円の税源移譲を達成し、さらに約五兆一千億円にも上る地方交付税と臨時財政対策債の大幅削減が実現しました。
平成十五年三月十九日、「テロとの戦い」を訴える米国のブッシュ政権は、イラクのフセイン政権による大量破壊兵器の保有を理由に、米英軍共同で軍事作戦を開始しました。小泉首相は直ちに米国の武力攻撃支持を表明します。四月には首都のバグダッドを制圧、フセイン独裁体制は崩壊しました。戦後はイラクの人道復興支援のため、イラク特別措置法を成立させ、その後、イラク南部サマワに陸上自衛隊を派遣します。PKO(国連平和維持活動)以外では初めて、陸上自衛隊を海外に派遣したことは、日本の国際協力の幅を広げるための新たな第一歩となりました。
9・11テロに加え、北朝鮮による弾道ミサイル発射、日本周辺海域での不審船の出没と、日本を取り巻く安全保障環境が緊迫感を増す中、日本に対する武力攻撃が発生した場合に国民の生命と財産をいかにして保護するか、国民の福祉維持のために国がどのような措置を講ずるかを定めた有事法制の必要性が叫ばれ始めました。
小泉首相は有事関連法案提出時、「できるだけ多くの協力を得たい」として、民主党との合意を目指します。民主党執行部も、これに前向きな態度を見せ、党内左派を説得し、平成十五年六月六日、自公保・与党三党に加え民主党、自由党の圧倒的な賛成多数で武力攻撃事態法案を始めとする有事関連三法案が成立しました。さらに翌年六月十四日には国民保護法案やACSA(日米物品役務相互提供協定)改正といった有事関連七法案と三条約も成立、承認されました。長い間、タブーとされてきた有事法制が与野党の合意によって成立に至ったことは戦後の安全保障政策においても実に画期的な出来事でした。小泉構造改革は安保政策にも及んだのでした。
平成十五年九月二十日、小泉総裁の任期満了に伴う自民党総裁選が行われました。この選挙から総裁任期が二年から三年に延長され、党員算定票も三百票となりました。投開票の結果、小泉総裁が三百九十九票(議員票百九十四票、党員算定票二百五票)、亀井静香元政調会長が百三十九票(議員票六十六票、党員算定票七十三票)、藤井孝男元運輸相が六十五票(議員票五十票、党員算定票十五票)、高村正彦元法相が五十四票(議員票四十七票、党員算定票七票)で、小泉総裁再選となりました。
これを受け、二十二日、第一次小泉第二次改造内閣が発足します。同時に行われた党三役人事では、北朝鮮による日本人拉致事件の対応で国民から強い支持を集めた安倍晋三官房副長官が、当選僅か三回ながら幹事長に起用され、注目されました。
この直後、民主党と自由党が合併しました。自民党には及ばないものの、民主党の議員数は二百四人となり、来る衆院選に向け二大政党制による政権交代をアピールする舞台が整いました。十月十日、選挙期間中に政権公約(マニフェスト)の配布を可能にする公職選挙法改正案が成立し、この日、小泉首相は衆院解散に打って出ます。
その後の総選挙ではマニフェストが一種のブームとなりました。十一月九日、投開票の結果、自民党は引き続き第一党の座を維持、単独過半数に近い二百三十七議席、追加公認を含めると二百四十議席を獲得しました。連立政権を組む公明党は三十四議席で三増、保守新党は四議席で、与党三党で過半数を大きく超える絶対安定多数(二百六十九議席)となります。ただ、保守新党は大幅に議席を減らした上、熊谷弘党首まで落選するという惨敗を喫したため、開票の翌日に解党、自民党に合流することとなりました。自公保連立政権は二党のみの自公連立政権となったのでした。選挙後の十九日、第二次小泉内閣が発足します。前回の内閣改造から余り時間が経っていないこともあり閣僚全員が留任しました。
総選挙の洗礼を受け、国民の信任を取り付けた小泉首相は社会保障制度の見直しにも着手します。中でも喫緊の課題として浮上したのが、年金制度改革でした。社会保障制度の見直しの「抜本的改革の第一歩」として、小泉首相は、少子高齢化が急速に進む中、現役世代の保険料負担増を避け、持続可能で安定した年金制度を実現するための年金改革関連法案を平成十六年の通常国会に提出します。国会での審議は途中、閣僚、与野党幹部の年金未納問題が発生するなど紆余曲折がありましたが、平成十六年六月五日、無事成立に至りました。
この年金制度改革を争点に行われたのが七月十一日の参院選でした。開票の結果、自民党は改選議席五十を割り込み四十九議席にとどまりました。一議席減となったものの、非改選分を含めると参院全体では公明党を合せて与党が過半数を維持したため、小泉首相は続投を表明します。
九月二十七日、小泉首相は内閣改造を行いました。残り任期が二年となった小泉首相にとって最大の課題は政治家としてのライフワークと位置付ける郵政民営化と構造改革の実現です。前年の衆院選時に郵政民営化を含む公約策定に尽力した武部勤氏を幹事長に登用し、さらに先の参院選で参院議員となった竹中金融兼経済財政政策担当相を金融担当から外して郵政民営化担当相兼任とし、「郵政民営化実現内閣」「構造改革実現内閣」と命名して小泉改革の総仕上げをスタートさせました。
平成十五年四月に日本郵政公社が発足し、九月には郵政民営化を訴えた小泉首相が総裁選で再選され、十一月の衆院選、翌年七月の参院選でも郵政民営化を公約に掲げ、国民の信任は受けた上で、内閣官房に「郵政民営化準備室」を発足させました。自民党内には「公社化したばかりなのに、なぜ民営化を急ぐのか」といった疑問の声もあり、郵政民営化実現は一筋縄には行きませんでした。しかし、小泉首相は不退転の決意で、これに当たるとし、平成十七年四月二十七日、反対意見が燻ぶる中、郵政民営化関連法案を通常国会に提出します。
五月の連休明けから郵政民営化の攻防が一段と激しさを増していきます。これに対し小泉首相は「不成立なら必ず衆議院を解散する」と断言し、反対派を牽制しました。国会は延長され七月五日、衆院本会議での採決は賛成二百三十三票、反対二百二十八票、五票の僅差で郵政民営化関連法案は可決します。自民党から三十七人が反対票を投じ、十四人が棄権・欠席しました。
続いて攻防の舞台は参院へと移ります。それでも可決の見通しが立ちません。小泉首相は、さらに語気を強め「この程度の改革ができずに大改革をやろうというのはおこがましい」と述べ、「否決されれば解散」の構えで参院の論戦に挑みました。八月八日、参院本会議で郵政民営化関連法案が採決され、賛成百八票、反対百二十五票、十七票差で否決されました。
これを受け小泉首相は即日、衆院解散を断行します。さらに郵政民営化に反対した自民党前職は公認せず、郵政民営化に賛成の新人候補を公認するという思い切った行動に出ました。「改革を止めるな。」をスローガンに展開された真夏の選挙戦は大いに盛り上がりました。小泉首相は「郵政民営化こそ、すべての改革の本丸」と強調し、「郵政民営化反対の民主党は官公労、公務員の既得権益擁護の党であり、そんな政党には構造改革は絶対にできない」と批判しました。九月十一日の投開票の結果、自民党は二百九十六議席を獲得、公明党の三十一議席を加えれば、与党で三百二十七議席という圧倒的多数の歴史的大勝利を収めました。有権者は郵政民営化に賛成という民意を示したのでした。
小泉首相は衆院選後の特別国会で二十一日、閣僚全員を留任させ第三次小泉内閣が発足、念願の郵政民営化関連法案を成立させました。続いて翌月三十一日には本格的な内閣改造を行います。その際、早い段階からポスト小泉の最有力とされた安倍前幹事長が官房長官に起用され、これまで小泉首相の右腕として構造改革を進めてきた竹中経済財政政策兼郵政民営化担当相は総務相に回りました。
一方、平成十七年十一月の立党五十年に向け、自民党内では新憲法草案の策定作業が平成十六年十二月から始まりました。小泉首相を本部長に「新憲法制定推進本部」を設置、翌年一月には、森喜朗前首相を委員長に「新憲法起草委員会」が発足し、分野別に十の小委員会が設けられました。
四月には、それぞれの小委員会から要綱が出され、それをベースに歴代総裁・衆参両院議長、民間有識者で諮問委員会を開いて内容を詰め、七月に素案、八月に条文の形で第一次案を発表しました。その直後の郵政解散に伴う選挙ではマニフェストの中にも「『新憲法制定』に向けて具体的に動きます」と明記し、十月に第二次案、新憲法起草委員会での最終審議を経て、十一月二十二日の立党五十年を記念して開催された党大会で新憲法草案を発表しました。
昭和三十年十一月、日本民主党と自由党が保守合同を成し、その際、「党の政綱」に「現行憲法の自主的改正」を掲げました。憲法改正は立党の原点であり、半世紀を経て、新たな第一歩を踏み出したのでした。
九月の総裁任期満了による退陣を前にした六月下旬、小泉首相は最後の訪米に出発します。ワシントンでブッシュ大統領との会談に臨みました。この五年間に「世界の中の日米同盟」を強化し、新世紀の日米同盟の基礎を築いてきたこと、普遍的価値観と共通の利益に基づく同盟関係の下で世界の安定と繁栄のため、幅広い協力ができることを確認した上で、日米協力の成果と方向性をうたった「新世紀の日米同盟」と題する共同文書を発表しました。滞在中、ブッシュ大統領は、米国の国民的歌手である故エルビス・プレスリーの大ファンという小泉首相を労うため、自らグレースランド(旧プレスリー邸)を案内しました。小泉首相と深い個人的信頼関係を築いたブッシュ大統領ならではの粋な計らいでした。
退任を控えた一カ月余り前の八月十五日の終戦の日、小泉首相は靖国神社に出向きます。それまでは国内外からの批判を考慮して八月十五日以外の日に参拝をしてきましたが、最後の最後で、平成十三年四月の総裁選で訴えた「私が首相になったら毎年八月十五日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」との公約を果たしたのでした。
小泉首相は政権発足当初から「聖域なき構造改革を断行する」「構造改革なくして景気回復なし」と強調し、党内や各省庁の抵抗をはねのけ、批判に屈することなく広範な改革を進めてきました。旧来型の手法に捉われず、果敢な行動力と実行力が小泉首相の持ち味でした。そして何より世論の強い支持をバックに、自民党の新しい可能性を引き出すと同時に、日本再生への突破口を切り開いたのでした。
退任に当たり、在任中、毎週木曜日に発行してきたメールマガジンの最終号に、小泉首相は自らの心境を短歌にして載せました。「ありがとう 支えてくれて ありがとう 激励 協力 只々感謝」。在任期間千九百八十日、五年五カ月にも及ぶ長期政権は静かに幕を閉じたのでした。