昭和31年12月14日~昭和32年3月21日

石橋湛山総裁時代

鳩山内閣が退陣したあと、同年十二月十四日、石橋湛山氏が第二代総裁に選ばれました。

石橋新総裁は、激しい総裁選挙の結果、選出された総裁でした。そのため、新政権の人事は極めて難航しました。

石橋新総裁としては、(1)派閥にとらわれぬ適材選別主義をとり、党内融合をはかる、(2)積極経済政策を推進するため、経済閣僚の人選を重視する、(3)幹事長、官房長官は意中の人物をあてる、という人事方針に立ち、幹事長に三木武夫氏、総務会長に砂田重政氏を起用しました。

第二十六回通常国会は、十二月二十日召集され、午後四時から両院で首班指名選挙が行われ、石橋湛山候補が第五十五代内閣総理大臣に指名されました。

しかし、閣僚人事は難航し、翌日を迎えたが話し合いがつかず、結局、首班指名三日後の十二月二十三日午前、石橋首相一人のみについて親任式が行われました。他の閣僚は、石橋首相の臨時代理または事務取扱というかたちの極めて異例なものとなりました。

その日の午後、ようやく組閣は終わり、夜になって閣僚の認証式が行われました。しかし、参議院自由民主党からの要望によって閣僚三名を割り振ることは決まったものの、参議院側が防衛庁長官に野村吉三郎元海軍大将を推してきたため、憲法の「文民」条項とのからみから参議院の入閣者が確定できず、石橋内閣は、二、三のポストを首相兼任のかたちで発足しました。専任の小滝彬防衛庁長官が決まったのは、二月に入ってからでした。

石橋首相は、首相個人の経歴と庶民的な人柄から「平民宰相」と呼ばれ、「一千億減税・一千億施策」を柱とする積極経済政策と、政官界の綱紀粛正、福祉国家の建設、雇用の増大と生産増加、国会運営の正常化、世界平和の確立など「五つの誓い」を発表して、大衆的人気を集めて内閣支持率は高率に達しました。

ところが、残念なことに、翌三十二年、新春早々からの全国遊説と、予算編成の激務が原因となって病に倒れ、同年二月二十二日、「私の政治的良心に従う」との辞任の書簡を発表して、政権担当いらいわずか九週間で、石橋内閣は総辞職のやむなきにいたったのです。しかし、このときの石橋首相の責任感にあふれた潔い態度は、ひとり政治家のみならず、一般国民にも深い感銘を与えました。

六十五日間の石橋内閣――その実績としては、わずかに前半、全国遊説の先々で国民に訴えた抱負と、首相臨時代理の岸外相によって代読された施政方針演説が残されただけです。しかし、石橋首相はその潔い出処進退によって政治家のモラルのあり方を示し、これには野党も敬意を表し、世の中も石橋首相のために同情と賛辞を惜しみませんでした。