平成12年4月5日~平成13年4月24日

森喜朗総裁時代

小渕内閣の総辞職に伴い、平成十二年四月五日、党大会に代わる両院議員総会において、幹事長の森喜朗氏を満場一致で第十九代総裁に選出し、「日本新生」をキャッチフレーズに第一次森内閣が誕生しました。

小渕前首相の緊急入院という不測の事態によって政権を受け継いだことから、森首相は小渕前内閣の閣僚全員を再任しました。森首相にとって小渕前首相は早稲田大学雄弁会時代からの盟友でした。それだけに森首相は病床の小渕前首相の心情を思いつつ、その志を引き継いで身命を賭して国事に取り組んでいくとの決意を示しました。

森内閣が最初に直面した難問は、北海道、宮崎県で猛威を振っていた口蹄疫問題でした。口蹄疫は家畜伝染病の一つで、多くの畜産農家が大きな打撃を受けました。森首相は直ぐに玉沢徳一郎農水相を中心に、ワクチン手配を始め対応に当たりました。その結果、被害拡大を防ぎ、短期間で収束させることができました。

この頃、衆院議員の任期満了を控えていたこともあり、衆院解散を予想する声が急速に強まっていました。解散の機を窺っていた森首相は、六月二日の定例閣議で「景気対策や九州・沖縄サミットもあるので、国民に信を問うため解散を決意した」と語り、「景気・サミット解散」と命名し、十三日公示、二十五日投開票の日程を決め、約三年八カ月ぶりに民意を問うこととしました。

森首相は景気と経済、高齢化社会に向けた改革、教育の改革の三分野を柱に、経済構造改革の目玉としてIT(情報技術)革命の推進を掲げた「日本新生プラン」を発表し、連立政権を組む公明党、保守党と力を合わせて選挙を戦い抜きました。

開票の結果、自民党は解散時の二百七十一議席から二百三十三議席となりましたが、公明党・保守党を合せて二百七十一議席と絶対安定多数(二百六十九議席)を確保し、再び政権を担うこととなります。

選挙後の七月四日、森首相は第二次森内閣を発足させました。第一次森内閣は、小渕前内閣の陣容をそのまま引き継いでスタートしましたが、第二次内閣では独自色を出しました。女性閣僚として、民間から通産省出身の川口順子サントリー常務を環境庁長官に、保守党の扇千景党首を建設相兼国土庁長官に起用して新味を出す一方、宮澤喜一元首相を蔵相、河野洋平元総裁を外相にといったベテランを要所に配置し、「改革実行型」の実力派内閣としました。

七月二十一日夕方、G8首脳会合の会場となる沖縄県・名護市の万国津梁館で開かれたG8ワーキング・ディナーに始まった九州・沖縄サミットは、西暦二〇〇〇年の節目に当たり、サミットの進展を顧みると同時に、二十一世紀に向けたサミットの意味合いを再定義する場となりました。

サミットでは「一層の繁栄」「心の安寧」「世界の安定」を三本柱に活発な意見交換が行われました。「一層の繁栄」では、ITが提供する機会の活用、先進国と途上国間のデジタルデバイド(情報格差)の解消に向けた「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章」が採択され、そのための作業部会創設も決定しました。これは森首相が一貫して主導してきたIT革命の促進を反映したものでした。

さらには、途上国が抱えるエイズ、結核、マラリアといった感染症の撲滅に関して、具体的な数値目標を掲げ、対策強化に取り組むことでも合意しました。「心の安寧」では、犯罪、薬物、バイオテクノロジー、食品安全、環境といった分野で討議が行われ、森首相は議長として采配を振るいます。とりわけ犯罪については、国際組織犯罪やハイテク犯罪、麻薬系薬物の生産と不正取引に対して、国際的枠組みでの協力態勢を強化することが合意されました。

「世界の安定」では、世界の地域情勢が取り上げられ、特に北東アジアの安全保障環境に関し、森首相の強いイニシアティブで「朝鮮半島に関するG8声明」が発せられ、北朝鮮の国際社会への建設的対応を強く促すG8の意思が表明されました。

最終日の二十三日には、三日間にわたる討議内容の集大成として「G8コミュニケ・沖縄2000」が採択され、サミットは成功裏に終わりました。そもそも、九州・沖縄サミットのレールを敷いたのは小渕前首相でした。それを後継者たる森首相が見事に完遂させたのでした。

森首相は在任期間一年余りの間に二十四カ国もの国々を精力的に訪れています。九州・沖縄サミットを目前に控えた四月末から五月の連休には、米欧露を歴訪した森首相は、就任後初の外遊先としてロシアを選びました。

森首相の父である故・茂喜氏は、石川県能美郡根上町の町長として、長い間、旧ソ連との民間交流に取り組んできたことで知られ、シベリア地方のイルクーツクには、茂喜氏の墓があり、遺骨が分骨されています。森首相は、茂喜氏の遺志を受け継ぎ、新生ロシアと日本との友好関係促進のため、在任中、五回にわたってプーチン大統領と会談しました。

日本にとってロシアはアジア・太平洋地域における重要な国の一つです。森首相はプーチン大統領との親密な個人的信頼関係を築き、北方領土問題を含めた諸懸案の前進を図ろうと努力を重ねました。

森首相は八月十九日から二十五日まで、南西アジア四カ国(バングラデシュ、パキスタン、インド、ネパール)を歴訪しました。中でもインド訪問では、大きな成果を残しています。当時、日印関係は、平成十年五月のインドによる核実験と、それに対する抗議のための経済制裁措置で冷え込んでいました。しかし、森首相はIT産業の集積地として成長著しいインドとの協力は、IT革命の促進を目指す上で不可欠と判断して、関係改善に努めたのです。

毎年恒例の国連総会に合わせて九月初旬、国連ミレニアムサミットが国連本部で開かれ、百四十七の国家元首を含む百八十九の国連加盟国代表が参加しました。この間、森首相は多くの首脳会談を通じて各国との信頼関係構築に努め、さらにサミット二日目の演説で、国連安全保障理事会の常任・非常任理事国双方の議席拡大、常任理事国に発展途上国を加えることを提案すると同時に、日本の常任理事国入りに意欲を見せました。加えて、唯一の被爆国であるわが国のリーダーとして、核軍縮、核廃絶や大量破壊兵器の拡散防止を主張し、世界平和を力強く訴えました。

平成十三年一月七日から十五日までは、ギリシャに加え、日本の首相として初めてサハラ以南のアフリカ諸国(南アフリカ、ケニア、ナイジェリア)を歴訪しました。森首相は「アフリカ問題の解決なくして二十一世紀の世界の安定と繁栄はなし」と明言し、貧困、紛争、感染症といった課題に対して総合的な協力・支援を行うことを表明したのです。森首相の発言はアフリカ諸国はもちろん、国際社会からも高い評価を得ました。

歴訪時、ケニアの子供たちが「私たちは ひとつの海の いくつかのしずく 私たちは ひとつの大洋の いくつかの波ともに探そう 協調への道 それが あなたと私の生きる道」という詩を森首相のために歌いました。この詩に感動した森首相は、外交を論じる際、たびたび、この歌を引き合いに出しています。

さらに、この年の四月、台湾の李登輝前総統の訪日受け入れの決断をしました。岡山県の倉敷中央病院での心臓病検査のための訪日でした。李前総統は旧京都帝国大学農学部に学び、大の親日家で知られています。中国から猛反発を受けましたが、すでに現職を離れた人であり、人道上の配慮から査証発給を認めたのでした。森首相の毅然とした態度は党派を超え、また各種メディアからも高い評価を受けました。世論もまた同様であったことは付言するまでもありません。

平成十二年十二月五日、第二次森改造内閣が発足しました。橋本龍太郎元首相が行政改革担当相兼沖縄開発庁長官となり、宮澤蔵相、河野外相の留任と合せ、総理・総裁を務めた大物が三人入閣するという異例の重量級内閣となりました。

第二次森改造内閣は、中央省庁が一府二十一省庁から一府十二省庁体制へと大きく再編されることに対応したものです。予定どおり翌年一月六日に実施された省庁再編は、こうした重量級内閣のおかげでつつがなくスタートが切れました。その意味でも、二十世紀から二十一世紀を跨いだ歴史的内閣といえます。

中央省庁再編は明治十八年十二月に内閣制度が創設されて以来の大改革でした。内閣府が設けられ、内閣官房の機能が強化され、複雑化、多様化する政策課題に合わせて、関係省庁の大くくり化を進め、縦割り行政の弊害を排除し、簡素化、効率化が図られました。政治機能強化のため中央省庁再編に伴い、各大臣の下に新たに副大臣と政務官も置かれました。

在任中、森首相が傾注したのが、時代の要請とも言えるIT革命に関する取り組みでした。日本型IT社会の実現こそが、二十一世紀という新しい時代における国民生活の向上と、日本の国際競争力をアップさせる大きな鍵になると信じていたからです。

森首相はIT革命を総合的に進めるため、自ら本部長となって「IT戦略本部」を立ち上げ、その下に民間有識者による「IT戦略会議」を設置しました。平成十二年十一月二十一日にはIT基本法が成立し、この法律の趣旨に沿って、翌年一月二十二日に開かれたIT戦略本部とIT戦略会議が統合されて発足した新しいIT戦略本部の会合で「五年以内に世界最先端の IT国家となることを目指す」ための「e-Japan戦略」が決定されました。

それを受け、三月二十九日には超高速ネットワークインフラの整備、電子商取引の普及促進、電子政府の実現、人材育成の強化を掲げる「e-Japan重点計画」を打ち出しました。さらにミレニアム(新千年紀)事業の一環として、「インターネット博覧会」を開催し、「世界最先端のIT国家」への基礎を整えたのでした。

森首相は、教育改革にも力を注ぎました。教育改革は、森首相にとって初当選時からのライフワークであり、かつて文相も務め、政治生命を賭ける政策課題と定めていました。すでに小渕前内閣で設置されていた「教育改革国民会議」によって検討が進められ、平成十二年十二月二十二日に「教育を変える十七の提案」と題する最終報告が提出されました。そこには、森首相が従来から強く提唱していた教育基本法の見直し、奉仕活動の実施も盛り込まれました。

こうした中、国会議員も絡んだKSD(ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団)事件、平成十三年二月十日には、ハワイのオアフ島南沖合で愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、米原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され沈没し、生徒を含む船員の計九人が行方不明となる不幸な事故も重なりました。

七月に参院選を控え、森首相は、ここは人心一新を図る必要があると判断しました。三月十三日に行われた党大会では、秋に予定されている総裁選の繰り上げ実施と自らの出処進退に言及しました。四月十一日の両院議員総会で「私が身を退くことで党が救われるのなら、日本が救われるのなら、こんなうれしいことはない」と述べ、二十六日、内閣総辞職に至りました。

森首相の在任期間は一年強でした。しかし、元ラガーマンらしく最後の最後まで全力疾走し、二十一世紀という新たな時代のスタートに向けた布石を打つ貴重な足跡を残したのでした。