平成10年7月24日~平成12年4月5日

小渕恵三総裁時代

平成十年七月に行われた第十八回参議院通常選挙で、わが党は得票数を大きく伸ばしながらも議席を減らす結果となりました。これを踏まえて、橋本龍太郎総裁(首相)は辞任を表明、七月二十四日、第十八代総裁を決める総裁選が行われました。立候補したのは、外相だった小渕恵三氏、厚相だった小泉純一郎氏、元官房長官の梶山静六氏の三人でした。自民党の衆参両院の全議員と都道府県代表による選挙の結果、小渕氏が一回目の投票で過半数を超える二百二十五票を獲得、新しい総裁に選ばれました。第二位は梶山氏、小泉氏は三位でしたが、国民の注目度は高く、選挙は盛り上がりました。

橋本内閣は七月三十日、臨時閣議で総辞職を決定。同日召集された臨時国会の衆院本会議で小渕総裁が第八十四代の首相に指名され、小渕内閣が発足しました。社民、新党さきがけ両党が参院選前に連立与党を離脱し、自民党が過半数に足りない参院では、民主党の菅直人氏が決戦投票で首相に指名され、両院協議会が開かれましたが合意に至らず、憲法六七条二項の規定によって小渕総裁の首相就任が決まったのでした。小渕政権のスタートが厳しい環境に置かれていたことは、この経過から明らかでした。

新政権が直面した最大の課題は、経済不況からの回復、とくに「デフレスパイラル」に陥る危険を内外から指摘する声が高まっていた金融危機の回避でした。香港、タイ、インドネシア、韓国などアジア各国の経済を破綻状態に追い込んだ世界的金融危機は、この年八月にロシアがデフォルト(債務不履行)に陥り、ブラジルが破綻の瀬戸際となるなど深刻そのものでした。欧米ではヘッジファンドの危機がいわれ、最大手のロングターム・キャピタル・マネージメント(LTCM)が破綻、米国・ウォール街にも衝撃が走りました。そのうえ、ここで日本の大手金融機関が昨年に続いて次々と倒れるような事態になれば、世界経済が破滅状態となる可能性があったのです。小渕政権の責任は重大でした。

小渕新首相は先輩首相である宮澤喜一氏に、異例のことでしたが蔵相就任を依頼、経済企画庁長官に民間から評論家の堺屋太一氏を登用し、景気対策シフトを敷きました。官房長官には、それまで幹事長代理として活躍し、野党との交渉に辣腕が期待された野中広務氏が就任しました。

七月七日に行った初の所信表明で小渕首相は、「経済再生内閣」と自らの政権を位置づけ、「二年以内に景気を回復軌道に乗せる」と国民に約束、即座に経済戦略会議を設置して具体策の作成に着手しました。橋本内閣との違いは、経済構造改革から積極財政への明確な転換でした。経済構造改革は、日本の将来のために避けて通れない道なのですが、その前に経済が破綻してしまってはどうにもならないという現実的な判断が、小渕政権の基本的な考え方だったのです。

国会での野党勢力の攻撃や先行きの見えない景気の低迷から、マスコミは小渕内閣は船出してすぐに難破する可能性が濃厚と予想しました。国会運営ですぐに行き詰まって、短期政権になるだろうとの見方でした。しかし、この予想は外れ、金融危機をなんとかしのいだ小渕政権は、翌平成十一年になると尻上がりに好調になり、長期政権の雰囲気が強くなっていきます。しかしそれは後のことです。

八月三十一日には北朝鮮が先のノドンに続いてさらに長距離型のミサイル、テポドンの発射実験を行い、日本国民に脅威を与えました。テポドンは日本列島を飛び越えて三陸沖の太平洋に落下したのでした。衆参両院は即座に北朝鮮を非難する決議を行い、政府は直ちにKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)への拠出凍結などの制裁措置を決定しましたが、北朝鮮の脅威は、経済不況に覆われる日本にさらに暗い影を落としました。小渕首相は九月二十日から二十三日にかけて国連総会出席のため訪れたニューヨークでクリントン米大統領と会談し、日米韓が緊密に連携して中国やロシアなどの協力を求め、北朝鮮の核とミサイルの開発を阻止していく方針を確認しました。

「金融国会」と名付けられた臨時国会は、金融再生法案の論議に日本長期信用銀行の救済問題が絡んだことから野党側に疑心暗鬼がつのり混迷しました。しかし、政府と自民党は一丸となって民主党、社民党、自由党、新党平和(十一月に参院の公明と合流して公明党)などとの協議に乗り出しました。ほとんど寝る間もない折衝の連続で、「政策新人類」などと呼ばれた金融システムを懸命に勉強した中堅・若手議員らの活躍も目立ちました。論議は破綻前の金融機関に公的資金を投入することの是非などが焦点でした。

十月五日には東京証券株式市場の平均株価が一万三千円を割り込み、その前日の主要国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)は、日本に破綻前の金融機関への公的資金投入を求める異例の声明を発表しました。そうした中、小渕首相は野党党首との直談判で事態の打開を図ることを決意、各党との個別会談が行われ、十月十二日には金融再生法が、続いて臨時国会会期末ぎりぎりの同月十六日には、金融機能早期健全化法がそれぞれ成立したのです。

それは、破綻を免れない金融機関を公的管理(事実上の国有化)に移行するシステムとともに、破綻を救うために六十兆円の公的資金投入の枠組みを設定するという画期的な内容でした。この法律に基づき、長銀が特別公的管理の申請を行ったのは、国会閉幕から一週間後の十月二十三日のことでした。続けて、同じシステムによって、年末には日本債権信用銀行も特別公的管理に移行します。法律が整備されたことで、そうした大手金融機関の事実上の破綻にもかかわらず、前年の山一証券の自主廃業のような衝撃は経済界には薄く、世界と日本の金融市場は不安を残しながらも一息ついたのでした。

金融危機対策に一区切りをつけた小渕政権は、十月三十日に宮澤蔵相が「新宮澤構想」と呼ばれる三百億ドルのアジア救済プランを発表、十一月十六日には十七兆九千億円の緊急経済対策を決定して景気テコ入れのために思い切った施策をとりました。さらに年末には、内需拡大を目指した八十一兆円にのぼる平成十一年度予算を組み、内外になんとしても景気を上向かせるという小渕政権の強い決意を明らかにしたのでした。

その間、防衛庁の調達実施本部などの背任・証拠隠滅事件が拡大し、その責任をとって額賀福志郎防衛庁長官が辞任するなどの不測の事態もありました。しかし、小渕首相は「金融国会」に足を縛られながらも、外交でも手は抜かず頑張りました。

十月始めには金大中韓国大統領が来日し、小渕首相とともに「二十一世紀に向けたパートナーシップ」を目指す「共同宣言」に署名しました。日韓両国はこれまで、過去の歴史を巡る「お詫び」の文言をめぐってぎくしゃくする後ろ向きの関係が続いていましたが、金大統領と小渕首相の首脳会談によって、そうした問題に一区切りをつけ、前向きの関係に転換したのです。首相は翌十一年三月に今度はこちらから韓国を訪問、前向きの関係をさらに強固なものにすることに成功します。

十一月初旬にロシアを訪問した小渕首相は、橋本前首相と外相時代に自らが連携して敷いた北方領土問題解決へ向けての交渉をさらに一歩前進させました。「国境画定委員会」を設置し、二〇〇〇年までの平和条約締結に全力を尽くすことをうたった「モスクワ宣言」に首相とエリツィン大統領が署名したのです。ただ、その後、大統領の病状が悪化したのと、ロシアの政局が安定せず、それ以上の進展がみられないのは残念なことです。

同月下旬には、クリントン米大統領が来日し、北朝鮮や沖縄の米軍基地問題について、小渕首相と突っ込んだ話し合いをしました。十一月十五日に投開票された沖縄県知事選で、自民党県連が推した稲嶺恵一氏が当選、それまでの日米安保条約に非協力的姿勢だった県政が現実路線に転換され、基地問題解決に明るい見通しが出ていました。こうした経過が、翌十一年四月の九州・沖縄サミット(主要国首脳会議、平成十二年)開催決定という勇断に結びついていったのです。日本でのサミットはそれまで首都・東京以外で開かれたことはありません。

中国の江沢民国家主席が来日したのは、それから間もなくの十一月二十六日のことです。ただ主席は、首脳会談や演説のたびに「日本の侵略の歴史」や「過去の清算」など、中国の立場を強調したので、小渕首相はそうした非生産的な関係を転換したいという日本の姿勢を示しました。首相は翌年七月に中国を訪問しますが、このときは江主席ら中国側首脳の姿勢も変わり、佐渡ヶ島に絶滅したトキの成鳥を贈られるなど、友好関係促進が確認されます。対中国外交は、ロシアほどではないにしても、小渕首相にとっては汗をかきながらの仕事でした。

このほか、首相は十年十二月のベトナム訪問(ASEAN首脳会議)、十一年一月のフランス、ドイツ、イタリア歴訪、二月の故フセイン・ヨルダン国王葬儀出席、六月のドイツ・ケルンでの主要国首脳会議(サミット)出席など、首相就任から一年の間に、多彩な外交を展開しました。

小渕首相、野中官房長官、自民党執行部は、政権発足直後から、参院過半数割れの政権基盤を強固にする方策を模索していました。その努力が、具体的になるのは四カ月後、十年十一月になってからでした。同月十九日に小渕首相と小沢一郎党首が会談して合意が成立、通常国会召集を目前にした十一年一月十四日に、自民、自由の連立内閣が発足しました。小渕首相は内閣改造を行い、自由党から野田毅氏を自治相に迎えました。

平成十二年通常国会で、小渕連立政権は歴史に残る成果を次々と挙げていきました。自民、自由の連携に加え、公明党との協調関係が功を奏したといえます。

まず、平成十二年度予算は三月十七日、戦後最速で成立し、景気の低迷に苦しむ国民から歓迎されました。五月七日には情報公開法、同月二十四日には懸案だった新たな日米防衛協力の指針(ガイドライン)関連法が成立しました。ガイドライン関連法は、日本の安全保障に影響のある「周辺事態」が発生し、米軍が出動した際に日本が行う後方支援の具体的在り方を決めた法律で、日米安保条約の足りない部分を埋める画期的な内容です。

さらに、国会会期が延長された後の七月八日には、中央省庁改革関連法案と地方分権一括法案が成立、時代にあわなくなったわが国の行政システムが二〇〇一年から抜本的に改革されることが確定しました。同月二十六日には、閣僚に代わって国会で答弁する政府委員制度の廃止や副大臣・大臣政務官制度と党首討論制度を導入する国会活性化法、二十九日には衆参両院に憲法調査会を設置する改正国会法も成立しました。ともに、討論の空洞化の指摘があった国会の在り方を一新させるものですが、特に憲法調査会設置は新しい時代にふさわしい憲法のあり方を追求する論議が期待されます。

八月九日に成立した日の丸を国旗とし君が代を国歌と規定する国旗・国歌法も特筆に値します。これは、卒業式での国旗・国歌の扱いをめぐって広島県で起きた高校校長自殺事件を契機に、小渕首相や野中官房長官が法制化を決断したのです。これで日本人は世界各国と同じように胸をはって日の丸を掲げ、君が代を斉唱できるようになりました。

小渕首相の功績としては十一年三月二十三日に発生した北朝鮮工作船の能登半島沖領海侵入事件での、初めての海上自衛隊に対する海上警備行動の発令も挙げておく必要があるでしょう。首相の決断が、領海侵犯に断固として対応するという日本の姿勢を改めて内外に示したのです。

四月の統一地方選では、東京都知事選で無所属の石原慎太郎氏が自民党、公明党、自由党などが推薦した候補を破るなど、都市部ではまだ無党派といわれる有権者が少なくない状況が続いたものの、全体として見れば、地方におけるわが党の基盤がしっかりしたものであることを示したと言える選挙結果でした。

わが国の経済は「経済再生」を掲げる小渕政権の全力投球の姿勢が着実に景気回復の方向をもたらし、失業率が高めに推移する状態は続いていたものの、十二年一~三月期の国内総生産は前年比一・九パーセントの大幅なプラス成長でした。七月三十日に政権発足一周年を迎えた小渕政権は、苦しかったスタート時点では予想もつかなかった好成績を挙げていきました。

小渕総裁は前総裁の任期を引き継いだものであったため、九月九日に総裁選挙が告示され、小渕恵三総裁、加藤紘一前幹事長、山崎拓前政務調査会長が立候補しました。党員・党友投票の開票と党所属国会議員の投開票は二十一日に行われ、小渕候補三百五十票、加藤候補百十三票、山崎候補五十一票で、小渕総裁が再選されました。

なお、党員・党友の票は今回も一万票を一票として計算され(百の位以下切り捨て、千の位を四捨五入)、これが「党員算定票」として、国会議員票と合算されました。党員・党友の有権者は二百九十一万一千五百十九人で、投票率は四九・三二パーセントでした。

総裁選後の平成十一年十月五日、初の自自公連立政権となる小渕再改造内閣が発足しました。小渕首相は「金融国会」の最中から、あらゆるレベルで公明党との対話を続け、着々と協力関係を築き、総裁選前の七月下旬に自民党、自由党、公明党三党による連立政権樹立を決定しました。

小渕再改造内閣では、宮澤蔵相、堺屋経済企画庁長官が留任し、翌年七月の九州・沖縄サミットを見据えて、外相には河野洋平元総裁を充てます。

内閣の要である官房長官は、公明党との連立政権に際して手腕を発揮した野中氏が幹事長代理として党務に戻ったため、参院の青木幹雄氏が後任として就任しました。さらに自由党からは二階俊博氏が運輸相兼北海道開発庁長官、公明党からは続訓弘氏が総務庁長官として入閣しました。

初閣議の席上、小渕首相は、景気回復を本格軌道に乗せるための総合経済対策の策定や第二次補正予算の編成にいち早く取り組むことを指示し、「『対話と実行』を基本とし、国民の声に十分耳を傾けるとともに、スピーディーな政策実施を心掛けていただきたい」と述べました。

ただ、自自公連立政権にはこぎ着けたものの、この頃から自由党の小沢党首による政権揺さぶりが始まりました。まず自由党は介護保険制度見直しの政府特別対策を拒絶します。自民党は介護保険料で賄う保険方式の維持を方針としていましたが、自由党は介護保険のみならず年金や高齢者医療の財源全てを消費税で充てるいわゆる税方式への転換を主張しました。これが決着しなければ第二次補正予算は組めません。小沢党首は記者会見で「このままでは補正予算案には賛成できない」と語り、暗に連立離脱を仄めかしました。この時自由党は反対から一週間後に、容認に転じますが、しばらくすると、再び雲行きが怪しくなります。今度は自由党が主張する衆院の定数削減について自民党との間で意見が対立したのです。最終的には自民党が自由党の要求を受け入れ、衆院比例代表定数を二十削減する法案を成立させますが、自民党内には自由党に対する不信感が拡大していきます。

平成十二年、西暦二〇〇〇年というミレニアム(千年紀)に当たり、世界的にコンピューターの誤作動、いわゆる「二〇〇〇年問題」が懸念されましたが、国、地方自治体、産業界の周到な準備によって大きな混乱もなく、新しい年がスタートしました。夏には小渕首相の宿願である九州・沖縄サミットが控えていましたが、政局は相変わらず不安定な状況が続きました。小渕首相を悩ませたのが、自由党への対応でした。次期衆院選を見据えた自由党との選挙協力も遅々として進みません。

党内の一部には、安全保障や社会保障を含め自由党の主張をできるだけ取り込み、健全な保守勢力の再構築を図るべきとの意見もありましたが、どんなことをしても自由党を連立政権内に引き留めようとする空気は、もはや残っていませんでした。そんな中、最後まで自由党との話し合いを模索したのが小渕首相自身でした。小渕首相は「安全保障問題など自由党本来の主張について努力をともにしていく中で、連立の意義をより高めていく努力をしたい」と、懸命に自由党との接点を探ろうと試みました。しかし、自由党は軟化するどころか、次期衆院選において、自由党の現職の当選を保証し、自民党が一方的に譲歩すべきであるかのごとき主張を展開します。とりわけ自由党が選挙協力の対象議員一覧を公表して、自民党に圧力を加えたため、両党間に修復不能な亀裂を生んでしまいました。

平成十二年四月一日、この日は土曜日でしたが、小渕首相の公務は平日並みの分刻みでした。午後六時前、官邸にて小渕首相は小沢党首との会談に臨みます。結局、溝は埋まらず、一年三カ月にわたった自由党との連立政権は解消されました。その後、自由党の国会議員五十人のうち、過半数を超える二十六人が連立政権からの離脱に反対して自由党を離党しました。離党者は扇千景参議院議員を党首、野田毅前自治相を幹事長として保守党を旗揚げし、自公保連立政権に移行することとなります。

小沢党首との会談を終えた小渕首相の表情は疲れ切っていました。二日未明、小渕首相を突然、脳梗塞が襲いました。直ちに病院に搬送されますが、病状は極めて深刻な状態でした。内外の政治課題が山積する中での政治空白を避けるため、二日後の四日夜、首相臨時代理に指名された青木官房長官の下で臨時閣議が開かれ、内閣総辞職が決まりました。

振り返れば、金融危機の渦中に、参議院で自民党は過半数割れという最悪の状態から小渕内閣は発足しました。就任時の世論の期待も、それほど高くはありませんでした。しかし、野党の攻勢に何度も苦しめられながらも、小渕首相は「人柄の小渕」と言われるだけあって笑顔を絶やさず、常に前向きに政権運営に当たりました。その結果、国旗・国歌法の制定、日米防衛ガイドライン関連法の整備、衆参両院における憲法調査会の設置と、長年の懸案事項を次々に実現させていきました。それに従い内閣支持率も上昇に転じ、いよいよ九州・沖縄サミットの成功に向けて精力を傾けようとしていた矢先での退陣でした。その後も小渕前首相の昏睡状態は続き、意識を回復することなく五月十四日、帰らぬ人となりました。享年六十二歳という若さでした。六月八日に日本武道館で行われた内閣・自民党合同葬には諸外国から多くの弔問客が訪れ、その早過ぎる死を悼みました。