平成7年10月1日~平成10年7月24日

橋本龍太郎総裁時代

平成七年九月二十二日に投・開票が行われた自民党総裁選は、「元気をだそう!日本自信回復宣言」を掲げた通産相の橋本龍太郎氏と、郵政三事業の民営化など斬新な政策を旗印にした小泉純一郎氏の立候補で国民の注目を集めました。結果は党員投票と国会議員の投票を併せて、橋本氏三百四票、小泉氏八十七票で、橋本氏が第十七代の自民党総裁に選出されました。河野洋平前総裁は八月末に立候補をとりやめていました。

橋本新総裁の掲げた政策は、自民党単独政権が崩れてから、経済の低迷などもあって元気の無い日本社会を再活性化させようというもので、国民は橋本自民党に強い期待を抱き、自民党内もこれに応えようという空気が高まりました。しかし、自社さ連立の村山富市政権が八月初めに内閣改造を行ったばかりであり、自民党単独政権時代のように、総裁が首相に就任するわけではなく、閣僚の交替もありませんでした。ただ、党三役は、幹事長が三塚博氏から加藤紘一氏に交替し、総務会長に塩川正十郎氏、政調会長に山崎拓氏という新布陣になりました。

この直後から年末にかけて、九月はじめに沖縄で米兵による少女暴行事件が発生したことや、駐留軍用地特別措置法による米軍駐留地の使用権をめぐる国と沖縄県との対立などがあり、沖縄米軍基地縮小問題が浮上。さらに破綻寸前となった住宅専門金融会社の不良債権処理問題が日本経済の浮沈がかかる緊急課題として政界に突き付けられました。村山富市首相が、日本の政治、経済、社会に活力を取り戻し、難しい外交案件に取り組んで行くために、「憲政の常道」にのっとって与党第一党である自民党総裁に政権を禅譲すべきだと決断したのは、橋本新総裁が誕生してから三か月余り後のことです。

平成八年一月五日、村山首相は首相官邸で記者会見して辞任を発表。自民、社会、新党さきがけの与党三党は幹事長・書記長会談や党首会談を開いて政権の枠組み維持と政策調整を行ったうえで、首相指名選挙の与党統一候補として橋本自民党総裁を擁立する方針を決めました。同年十一日に衆参両院で行われた選挙で首相に選ばれた橋本総裁は同日中に組閣を完了、橋本新政権が発足しました。自民党の総裁が首相に就任するのは、じつに二年半ぶりのことでした。新進党は、前年暮れに新たに党首となった小沢一郎氏が首相候補でしたが、橋本総裁に大差で敗れました。この直後、社会党は伝統の党名を「社会民主党」に変更しました。

新政権の顔触れは、副総理・蔵相に久保亘氏(社民党)、官房長官・梶山静六氏(自民党)、外相・池田行彦氏(自民党)、通産相・塚原俊平氏(自民党)、厚相・菅直人氏(さきがけ)らで、橋本首相は日本の経済、社会システムは抜本的な構造転換を求められる時期に来ているという認識から、「変革・創造内閣」と自らの政権を位置づけました。この基本方針から後に「六つの改革」が提示され、一府十二省庁への中央官庁の整理統合や地方分権の実現という戦後の政治行政システムの一大改革実現への道が具体化していくことになります。

橋本政権の当面の課題は、新年度予算案を早期に成立させ本格的な景気回復の路線を敷くことと、沖縄問題を含む日米関係の再構築など、首相の座を他の党が占めていた間に生まれた国政の停滞の回復でした。

首相は就任間もない二月二十三日に訪米し、サンタモニカでクリントン大統領と初の首脳会談を行い、沖縄問題の解決に向けて精力的に協議しました。この結果、米国は沖縄・普天間飛行場の全面返還で合意、四月十二日に橋本首相とモンデール駐日大使が共同記者会見をして発表するに至ります。沖縄の米軍基地の整理縮小は、橋本首相が"政治の師匠"と仰ぐ故佐藤栄作首相が実現した戦後史に残る沖縄の「核抜き本土並返還」をさらに一歩進める画期的な業績で、沖縄県民の熱意に自民党政権が応えるとともに、日米の安全保障協力再構築に欠かせないものでした。

日米両政府は四月十五日、日米安全保障委員会(2+2)を開催して沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の基地整理縮小に向けた中間報告を了承。これを踏まえ、クリントン大統領が四月十七日に来日し、橋本首相との会談で「日米安保共同宣言」を合意し発表しました。こうした一連の橋本政権の努力は、核開発疑惑が晴れずミサイル実験も進める北朝鮮、潜在的緊張関係が続く中国と台湾など極東情勢をにらみ、わが国の安全保障に万全を期すためのもので、平成九年九月の「新たな日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)決定につながりました。

内政では、平成八年度予算案に含まれる住専の不良債権処理策をめぐって、与野党が対立しました。住専が次々に破綻し日本の金融システムがパニックを起こせば、不況に苦しむ日本経済への打撃は図り知れません。国民生活の困窮化を回避するため、政府・与党は住専の経営責任を明確にしたうえで六千八百五十億円の公的資金を投入する方針を打ち出したのですが、野党側はこれに反対。新進党は衆院予算委の審議を拒否したうえ、三月四日からは国会内に議員らが座り込んで審議の妨害をするというピケ戦術をとりました。

ピケは二週間以上も続き、国民の批判は新進党に向き、三月二十四日に投・開票が行われた参院岐阜補選では与党候補が圧勝しました。こうした状況を見据えて橋本首相は二十五日に新進党の小沢一郎党首と会談、衆院予算委の再開にこぎつけます。新年度予算案が衆院を通過したのは四月十一日、参院で成立したのは五月十日でした。この通常国会の期間中、新進党の支持母体のひとつである創価学会の政教分離問題、平成九年四月一日から五パーセントに引き上げることが決まっている消費税率問題などが、自民党内で大いに論議されました。

橋本首相は国会運営に難渋する一方、三月一日からタイのバンコクで開かれた第一回アジア欧州首脳会議(ASEM)に出席、韓国の金泳三大統領との会談で竹島の帰属問題を切り離した排他的経済水域の決定と漁業交渉の早期開始で合意するなど、外交にも汗を流しました。四月十八日にはロシアを訪問し、エリツィン大統領と北方領土の解決と平和条約の早期締結に向けた交渉継続を確認。六月二十七日からのフランス・リヨンでの主要国首脳会議(サミット)では、アジアの代表として活躍しました。

九月十七日、臨時国会が召集され、橋本首相は冒頭で衆院を解散しました。この直前、新党さきがけ代表幹事だった鳩山由紀夫氏、菅直人氏、新進党の鳩山邦夫氏らによる民主党が旗揚げしていました。自民党、共産党を除く各党は内部の動揺が激しく、初めての小選挙区比例代表制度による総選挙によって、国民の政党に対する審判を行うタイミングと橋本首相は判断したのでした。

自民党は十月二十日の投開票の結果、過半数には至りませんでしたが、改選前の二百十一議席から二百三十九議席に大きく伸び、国民が政権を任せることができる第一党と考えていることが明らかになりました。橋本首相は、社民党、新党さきがけは閣外に転じたものの引き続き協力関係を維持したうえで、十一月七日、第二次橋本内閣を発足させました。同月二十八日に初会合をひらいた行政改革会議が取り組む中央省庁再編と地方分権、財政構造改革会議が取り組む財政再建、疲弊した制度の改革へ本格的なチャレンジが始まったのでした。

この年末にはペルーで日本大使公邸人質事件が発生、平成九年四月二十三日の武力解決まで、政府と自民党には、人質の安否を気遣うやり切れない日々が続きました。

平成九年一月に召集された通常国会の施政方針演説で橋本首相は、六つの改革を断行して行く決意を表明します。「行政」「財政構造」「社会保障構造」「経済構造」「金融システム」「教育」がそれで、首相は「痛みを忘れて改革の歩みを緩めたり、先延ばしすることは許されません」と強調しました。この六つの改革は、経済不況の深刻化から一時的な方向転換を余儀なくされた「財政構造改革」を除き、自民党の真摯な努力によって、その後、着実に実現に向けて進んでいます。

この年の通常国会は、前年のような波乱もなく順調に進み、平成九年度予算も三月二十八日に年度内成立しました。介護保険制度の創設など少子高齢社会に備えた「社会保障構造改革」、個々人の多様な能力の開発と創造性、チャレンジ精神重視に転換する「教育改革」など、国民が切望する改革を進める橋本政権に野党陣営も抵抗するわけには行かなかったのです。

首相はこの間、メキシコのセディージョ大統領、米国ゴア副大統領、マレーシアのマハティール首相、ドイツのヘルツォーク大統領ら来日した各国首脳と会談。六月には米国・デンバーでのサミットに出席した後、ニューヨークの国連で地球環境保護を訴えて演説、オランダで日・EU定期首脳会議を行うなど精力的な外交を展開しました。

七月二十七日、首相はサミットでのエリツィン大統領との会談を踏まえ「信頼、相互理解、長期展望」を原則とする対ロシア外交の基本方針を発表しました。それは、同年十一月の東シベリア・クラスノヤルスクでの首脳会談による「二〇〇〇年末までの平和条約締結」合意、平成十年四月の静岡県・川奈での橋本首相からの「国境線画定の新提案」など、その後の日露関係進展の基礎になりました。

総裁任期二年が終了した橋本首相は九月八日に無投票で再選され、十一日に内閣改造をして第二次橋本改造内閣を発足させました。このころから、大手を含む金融機関の経営悪化がいっそう著しくなり、橋本政権はその対策に追われるようになりました。十一月末にカナダで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の非公式首脳会議、十二月中旬にマレーシアで行われた東南アジア諸国連合(ASEAN)との首脳会議などで、橋本首相が熱弁をふるったのも日本とアジアの金融危機の問題でした。

十一月三日、中堅の三洋証券が東京地裁に会社更生法の申請をして事実上倒産。続けて都市銀行最下位ながら北海道経済の柱だった北海道拓殖銀行が大量の不良債権で資金繰りがつかなくなり同月十七日に北洋銀行などへの事業譲渡を決め、破綻しました。その五日後、こんどは四大証券のひとつで従業員七千五百人、預かり資産二十兆円を越える山一証券が自主廃業に追い込まれ、経済界だけでなく国民全体に大きな衝撃を与えます。山一証券の事実上の倒産は、金融不安に拍車をかけ、日本経済の国際的な信用という点からも深刻な事態でした。

橋本政権は、十一月十八日に十兆円の金融安定化のための緊急対策を決定、十二月十七日には首相が記者会見して二兆円の特別減税実施を表明するなど対策を打ち出しました。首相自らが先頭に立って監督官庁である大蔵省を督励するなどの努力もしました。

年が明けて平成十年一月に通常国会が召集されると、橋本首相は施政方針演説で「金融システム安定化策と経済運営」に全力を尽くす決意を強調、世間の風向きを変えようとしましたが、経済界を覆う暗雲は容易には去りません。そんな折り、接待疑惑の発覚などで国民の不信を買った大蔵省に東京地検の捜査のメスが入り、ベテランの金融検査官が収賄容疑で逮捕され、この責任をとって三塚博蔵相が辞任するなど、景気の足をさらに引っ張るような不祥事もありました。

橋本首相が主導する「六つの改革」は着々と進展し、「財政構造改革」は平成九年十一月末に、二〇〇三年(平成十五年)には赤字国債の発行をゼロにするなどを内容とする財政構造改革法が成立していました。「行政改革」は、十二月三日には行政改革会議が中央官庁を一府十二省庁に再編する最終報告を決定し、平成十年六月に中央省庁改革基本法案が成立します。

財政構造改革は、子供や孫の世代に赤字のしわ寄せが及ばないようにするために不可避の政策と考えられ、財革法に基づいて平成十年四月八日に成立した平成十年度予算も緊縮型でした。しかし、不況にあえぐ国民の声を踏まえ、橋本首相は一時的な方向転換を決意します。予算成立の翌日に四兆円の特別減税上積み実施を発表、四月二十四日には財政健全化目標の先延ばしなど財革法改正方針とともに総額十六兆六千五百億円の総合経済対策を決定しました。六月九日には、大蔵省から金融行政の大部分を切り離す金融庁も発足させました。

四月にインドとパキスタンが地下核実験を行い、国際的にも騒然とした雰囲気の中で、七月十二日に参院選挙の投・開票が行われ、自民党は改選議席の半数に届かない四十四議席という予想外の不振でした。経済不況と金融不安が、責任与党である自民党の得票に大きく影響したと、党員は率直に受け止めました。橋本首相は七月十三日、「(参院選挙の結果は)すべてひっくるめて、私自身に全責任がある」と言明して、潔く首相と自民党総裁を辞任する意向を表明しました。

社民党と新党さきがけは参院選挙を目前にした五月三十日に連立与党を離脱しました。一方、新進党は前年暮れに一部が民主党と合流、残るメンバーは自由党と新党平和、公明に分裂していました。

自社さ連立は四年の長きにわたって維持されました。このことは、わが国政治史に特筆されることです。三党はオープンで民主的な手法をとり、「自衛隊」「日米安保」「日の丸・君が代」など国家の基本問題についてのコンセンサスを確立したのをはじめ、水俣問題、原爆被爆者援護法の制定などの「戦後五十年問題」を解決、さらに住専処理、日米安保共同宣言、NPO法の成立など、「五五年体制」では為し得なかった課題を解決し、大きな前進を見ることができました。