平成5年7月30日~平成7年9月30日

河野洋平総裁時代

宮沢喜一首相が行った衆院の解散総選挙は、平成五年七月十八日に投・開票が行われました。自民党は解散前に新生党、新党さきがけ議員の離党で過半数を大きく割り込む状態になっていました。選挙結果は、自民党の議席は解散前に比べればやや伸びたものの、離党の穴を埋めるには至らず、二百二十三議席にとどまりました。衆院の過半数二百五十六議席を大きく割り込むことになったのです。

それでも、マスコミや永田町の多くは自民党と新党さきがけによる連立政権が続く可能性が高いとみていました。なぜなら、選挙に敗北したとはいえ自民党が比較多数の第一党であることは変わりなく、自民党以外に十分な政権担当能力がある政党がないのは明らかだったからです。

ところが、政局は予想外の展開をみせました。七月二十九日になって、新生党、日本新党、新党さきがけ、社会党、公明党など非自民の七党一会派がトップ会談を開いて、特別国会の首相指名選挙で日本新党の細川護煕代表を一致して推す合意をしたのです。自民党から政権を奪いたいという小沢一郎氏らの新生党が、社会党や細川氏に話をもちかけ、合意形成に成功したのでした。背景には、「国民が望む抜本的政治改革は守旧派が多い自民党にはできない」という、マスコミの一部が流したデマに近いプロパガンダがありました。

八月六日の衆参両院の本会議で細川氏が首相に指名され、自民党は昭和三十年の保守合同から維持し続けてきた政権を失い、野党となりました。十一か月後の平成六年六月末、自民党、社会党、新党さきがけの村山連立政権が成立して自民党は再び政権の中枢に戻りますが、それまでの間、ガラス細工と評された基盤の弱い非自民・非共産の細川連立内閣に国政をあずけることになったのです。それに伴い、自民党は衆院議長のポストも失い、女性として初めて社会党の土井たか子氏が議長席に座りました。

七月三十日、宮沢喜一総裁の辞任を受けて、自民党総裁選が行われ、官房長官だった河野洋平氏が第十六代総裁に選ばれました。選挙は河野氏と渡辺美智雄元副総理・外相の争いで、河野氏二百八票、渡辺氏百五十九票でした。自民党議員の間には、新鮮なイメージから人気が出始めた細川首相に対抗するには、いわゆる派閥の会長ではない河野氏が総裁にふさわしいという考えがあったのです。

宮沢内閣は八月五日に総辞職しました。これまでなら自民党総裁として後継首相になるはずの河野新総裁は、野党第一党の党首として国政運営に関与していく立場になりました。幹事長には森喜朗氏が就任し、河野-森体制の自民党は、これまでの野党のような「何でも反対」とか「反対のための反対」などはせず、国民の生活向上や国益追究の立場から、細川政権に是々非々で柔軟に対応していく姿勢をとりました。

細川連立政権の発足は組閣に手間取り、八月九日にずれこみました。副総理・外相に新生党党首の羽田孜氏、官房長官に新党さきがけ代表の武村正義氏が就任、社会党から政治改革担当相となった山花貞夫委員長ら五人が入閣しました。細川首相は、八月二十三日に行った初の所信表明演説で細川内閣を「政治改革政権」と位置づけ、記者会見では政治改革法案が平成五年内に成立しなければ責任を取って退陣するという決意を表明しました。

一方、細川首相は「非自民政権」を率いたにもかかわらず、「自民党の政策を継承する」と言明しました。しかし、細川政権は政策の立案、決定のシステムに重大な欠陥がありました。それは七党一会派の寄り合い所帯であるうえ、内閣の中の閣僚経験者は羽田孜氏一人で、いわば政治の素人集団による政権であることが主な原因でした。政策決定機関として八党・会派による「政策調整会議」が設置されましたが、うまく機能せず、どうしても官僚に頼らざるを得ない状態だったのです。

細川首相が記者会見で先の大戦を「日本の侵略戦争」と断定して各方面から強い批判を浴びたり、平成六年二月に、新たな間接税である「国民福祉税構想」(税率七パーセント)を大蔵省などの言うがままに打ち出し、即座に撤回するという醜態を演じたのも、そうした政権の構造が遠因と言って良いでしょう。マスコミは、細川内閣を「官高政低」の政権と特徴づけました。

野党となった自民党にとって、政権を失う原因のひとつであった抜本的政治改革実現の足踏みをどう解消するかが、宮沢政権以来の大きな宿題でした。具体的には衆院の選挙制度改革が当面の課題で、河野総裁を先頭に精力的な検討を続け、平成五年九月二日に、衆院の定数を四百七十一に削減し、それまでの中選挙区制を小選挙区比例代表並立制に変える政治改革要綱を決定しました。細川内閣が政治改革関連四法案を閣議決定したのは、その二週間ほど後でした。衆院の特別委員会で政治改革関連法案の実質審議が始まったのは十月中旬、この後、衆院比例代表並立制の定数配分などをめぐって、自民党と連立与党との修正協議が続きます。

この前後、東京地検が大手ゼネコンの副会長を贈賄で、宮城県知事を収賄で逮捕し、国民の批判が政治と公共事業との関係に集まりました。また、政治改革をめぐって内部対立のあった社会党の委員長が山花氏から村山富市氏に交替、久保亘氏が書記長に就任するなどの動きもありました。

政治改革に賛成する議員を「改革派」、反対する議員を「守旧派」とマスコミなどがレッテルを張ったことも影響し、国民世論は改革の実現を求める声一辺倒の印象でした。そうした中、与野党の修正協議は自民党の柔軟姿勢もあって、十一月五日から十日の間に比例と小選挙区の定数配分など七項目を協議し、さらに、同十五日、河野-細川会談を行ったが合意には至らず、十六日の衆院本会議ではわが党案が否決されて与党案が可決され、参院に送付されました。

しかし、参院での審議は、細川政権の力不足と、景気低迷の中で平成六年度予算案編成を優先すべきという意見が連立内閣の中から出たことなどから、遅々として進みません。そのあげく、翌年一月二十一日の参院本会議で法案は否決されてしまいました。法案を成立させるには、衆院と参院が両院協議会を開いて修正し採決しなおす必要がありますが、その両院協議会も決裂したのです。

河野総裁は細川首相とのトップ会談で事態の打開を図る決意をします。一月二十九日、内外の注目の集まる中で両首脳の会談が行われ、細川首相は河野総裁の主張する自民党の意見を取り入れた再修正を受け入れました。この結果、小選挙区三百、ブロック別の比例代表計二百、合わせて定数五百の小選挙区比例代表並立制導入を主な内容とする政治改革関連法案が、衆参両院の本会議で可決され、やっと成立したのです。

政治改革はまがりなりにも出来たのですが、平成六年春には、早くも細川政権の前途は暗雲に包まれていました。前年暮れには関税貿易一般協定(GATT)の新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)が最終局面を迎え、政府はコメ市場の部分開放(ミニマム・アクセス)と関税化を受け入れましたが、国内対策は不十分で、農業関係者には強い不満が残りました。五年十二月には中西啓介防衛庁長官(新生党)が憲法発言などで辞任、熊谷弘通産相(新生党)の省内人事に通産官僚が抵抗するなどの騒ぎもありました。六年二月の細川首相と米国のクリントン大統領による日米包括経済協議をめぐる会談は、日本側の輸入拡大を目指す数値目標に話が及び、決裂してしまいました。前述した国民福祉税構想の挫折もありました。

しかし、そうした個別の政策的失敗よりも、政権の命を縮めたのは新生党と新党さきがけの政権内部の対立であり、致命傷は細川首相個人のスキャンダルでした。前年、平成五年十二月、東京佐川急便からの一億円借り入れ疑惑が発覚します。国政の最高責任者である首相の疑惑を自民党が見過ごす訳にはいきません。六年三月、党に「細川総理の疑惑に関する特別調査会」を設置して、徹底的に調査し追及することになりました。国会での追及に、最初は「ない」と答えた細川首相は次には「一億円は借りて返した」に変わり、返したなら領収証を提出するように求められると答えに窮したのでした。

平成六年四月二十五日、細川内閣が総辞職し、その日の衆参院本会議で同じ七党一会派によって後継首相に新生党党首の羽田孜氏が指名され、二十八日に新内閣が発足しました。ところが、この直後、政権内部で異様な動きが起きます。それは、新生党や民社党などによる社会党を除いた国会内会派「改新」結成でした。いわば社会党追い出し作戦といって良く、これに社会党は激怒、連立を離脱し、羽田政権は瞬く間に少数与党内閣に転落してしまったのです。

このため、羽田内閣は政策らしきものは何一つ打ち出せず、右往左往します。見かねた河野総裁、森幹事長らは国民生活を守るために内閣不信任案を衆院に提出。羽田首相と新生党の小沢一郎代表幹事が官邸にこもって協議した結果、内閣総辞職と決まり、羽田内閣はわずか二カ月で終焉してしまったのです。

そうなると、国民の期待は責任政党である自民党に当然のように集まります。自民党の選択肢は、社会党が抜けた羽田内閣の政権与党と組むか、それとも社会党と組むか。わが党内のさまざまなグループ、集団が、社会党、新党さきがけと提携するのがベターと考え、その可能性を模索し始めました。

自民党と社会党はいわゆる五五年体制といわれた自民党政権が続いた時代に、長く国民の支持を分け合って対決して来た歴史がありました。したがって、それまでの常識では自社の連立内閣は考えにくいものでした。ところが、その常識が覆ります。自民党の真剣な姿勢に社会党が政策転換を約束して応えることになったのです。

六月二十八日、森幹事長は社会党の久保亘幹事長と会談して正式に村山富市社会党委員長を首相とする連立内閣を提案、同日の河野-村山会談で「自社さ連立政権」の合意が正式に成立しました。衆院本会議で首相指名選挙が行われたのは二十九日。非自民連立側は海部俊樹元首相を立て、決戦投票で村山氏が首相に選ばれました。自民党は再び政権与党に復帰したのです。三十日、村山政権は副総理・外相に河野自民党総裁、蔵相に武村正義新党さきがけ代表、官房長官に社会党の五十嵐広三氏というメンバーで発足しました。政権の骨格を事実上、経験豊富な自民党が支える体制であったのは言うまでもありません。

社会党はこの後、九月三日に開いた臨時党大会で、これまで違憲としていた自衛隊を合憲とし、日米安保条約を認める歴史的な政策転換を行いました。野党となった非自民連合側は、新生党が同年十一月に解党し、公明党の衆院議員、民社党、日本新党などが合流して新進党(海部党首、小沢幹事長)を結成、自社さ政権に対抗する態勢を作ります。

村山首相は、ナポリ・サミット(七月八日)、日韓首脳会談(七月二十三日、ソウル)、東南アジア歴訪(八月末)、アジア太平洋経済協議(十一月十二日、ジャカルタ)、日米首脳会談など、不慣れな外交にも力を入れ、自民党の支えで政権運営に励みました。内政でも、消費税率引き上げの税制改正、衆院小選挙区の区割法制定、年金法改正、自衛隊法の一部改正など、重要施策を次々と実現していきました。

村山政権に大衝撃を与えた阪神淡路大震災が発生したのは平成七年一月十七日未明。六千四百二十五人もの尊い生命を奪い、近代都市神戸を壊滅状態にした未曾有の災害は、政府・首相官邸の危機管理、もっと広く言えば日本全体の危機管理を、深い反省とともに再点検し、新たなシステムを構築する必要性を痛感させたのでした。村山政権は緊急復旧費として一兆円規模の平成六年度第二次補正予算を組みました。

自民党が屋台骨を形成した自社さ連立の村山政権は、かなりの実績をあげ、頑張り続けました。七年八月には、戦後に区切りをつけアジア各国への日本の立場を明確にする「戦後五十年の国会決議」を衆院本会議で行いました。ただ、平成七年春の統一地方選では、東京都知事に青島幸男氏、大阪府知事に横山ノック氏が政党の推薦を受けずに当選するなど、無党派層有権者の拡大がみられ、政治情勢は必ずしも安定しませんでした。

そんな中で行われた七月二十三日投票の参院選挙も波乱含みに推移し、自民党は三年前の獲得議席六十七を大幅に下回り、四十六議席にとどまりました。また、獲得議席は新進党の四十議席に負けはしなかったのですが、比例区の得票では新進党が上回ったのでした。この結果が、この年秋の自民党総裁選で、河野氏から橋本龍太郎氏に総裁が交替する動きにつながっていきます。