平成元年6月2日~平成元年8月8日

宇野宗佑総裁時代

第十三代宇野宗佑総裁は、自民党三十数年の長期政権のなかでも、最も困難な時期に誕生した総裁でした。総裁選出までの過程もさることながら、その後の経過はさらに厳しいものがありました。なによりも参議院選挙が一ヵ月半の後に迫っており、それまでに、政治改革に一応の目途をつけ、選挙に臨む体制づくりを行う必要がありました。国会では、予算は五月末に、三十五年ぶりの自然成立をしたものの、予算関連法案ほか重要法案の成立をはかるために、参議院選挙の告示ぎりぎりまで延会しなければなりませんでした。また、宇野首相就任と時期を同じくして、中国では天安門事件という流血の惨事が起こり、選挙前の七月中旬に開催されるパリのアルシュ・サミットで、隣国で関係の深い日本がどう対応するかが注目されました。

こういう情勢のなか、宇野首相は六月五日の所信表明演説で、竹下前内閣の推進してきた内外政策を継承する意思を明らかにし、「政府はスリムに、国民は豊かに」という基本的考え方のもとに、この内閣を「改革前進内閣」と名付けたいと述べました。しかし、参議院選挙の動向を占うとされた六月末の参議院新潟選挙区補欠選挙では、自由民主党候補が社会党の新人女性候補に大差で敗れ、自由民主党に対する逆風がますます厳しくなっていることを窺わせました。さらに、参議院選挙公示直前の東京都議会議員選挙では、消費税が最大の焦点となり、開票の結果、自由民主党は二十議席を失い、社会党は議席を三倍に伸ばしたのです。

宇野首相は、妻子も含めた閣僚および政務次官の資産公開等を行うほか、六月中旬には、「政治改革推進本部」を設置して、政治倫理、国会改革、党改革、選挙制度、政治資金、企画等の委員会を発足させるなど、政治改革の実践に取り組む一方、アルシュ・サミットでは、日本は第三次円借款の協議凍結等で西側の制裁措置には同調するものの、中国を国際的孤立に追いこむことのないようにというわが国独自の主張をするなどの外交努力を行いました。

しかし、七月の第十五回参議院議員選挙では、いわゆる三点セット、すなわちリクルート問題、消費税問題、農産物自由化問題が大きな争点となり、自由民主党は、全国いたるところでかつてない苦戦を強いられ、予想を超えた敗北を喫しました。当選者は比例区・地方区あわせてわずか三十六議席と改選議席の六十九議席を大幅に下回ったのに対して、社会党は改選議席の二倍を越す四十六議席を獲得しました。その結果、自由民主党は非改選議席とあわせても、過半数を大きく割り込み、参議院で与野党勢力が逆転するという立党以来最大の危機を迎えたのです。選挙の翌日、宇野総裁は、「敗戦の一切の責任は私にある」と述べて、退陣の意思を表明しました。

党執行部は、八月八日に党大会に代わる両院議員総会を開き、投票による後継総裁の選任を行うことを決しました。この総会で、後継総裁が決定するまで、宇野総裁の任期は六十七日、自民党史においては、石橋総裁と並ぶ短命で非運の政権となりました。