昭和62年10月31日~平成元年6月2日

竹下登総裁時代

第十二代総裁に選ばれた竹下新首相は、昭和六十二年十一月末開会の百十一回臨時国会の冒頭で、初の所信表明を行い、心の豊かさを志向する「ふるさと創生」を基調に、政治姿勢として「誠実な実行」を表明するとともに、「世界に貢献する日本」を目指して、内政と外交の一体化を称え、市場の自由化や経済構造調整にともなう諸改革を断行する決意を明らかにしました。新首相はさらに、「所得、消費、資産のあいだで均衡のとれた安定的な税体系の構築につとめる」と述べて、税制改革への強い意欲を示しましたが、翌昭和六十三年一月の施政方針演説では、税制改革を「今後の高齢化社会の到来、経済・社会の国際化を考えると、最重要問題の一つ」であると位置づけました。

野党はこれに対して、「大型間接税を導入しない、という中曽根前首相の約束に違反する」と言って猛反発しましたが、売上税廃案を決めた議長裁定は「直間比率の見直しも実現する」としており、これを誠実に実行することは、政権政党として当然の責務でした。ただし、竹下首相は、新間接税の策定に当たっては、逆進性、不公平感、過重負担、安易な税率引上げ、事務負担増、インフレ等、間接税導入に当たって懸念される六つの問題点の解消に努力すると述べて、「国民の納得のできる」税制改革とすることを強調したのです。

一方、竹下首相は、「世界に貢献する日本」の精神にふさわしく、初の外遊の対象として、六十二年暮にマニラで開かれたアセアン首脳会議への出席を選び、日本の国際的責任とアセアンの発展を踏まえた「平和と繁栄へのニュー・パートナーシップ」をうたいあげ、「アセアン・日本開発ファンド」の供与と、「日本・アセアン総合交流計画」を提唱しました。また首相は、六十三年一月には、双子の赤字の悩みから日本への批判が高まる米国を訪問し、レーガン大統領とのあいだで、世界における日米関係の重要性を再確認し合いましたが、とくに為替市場におけるドルの買い支えや在日米軍経費の負担増の申し出については、大統領から「心からの感謝」の意が表明されました。

この年は、米ソ間の緊張緩和が本格的となり、イラン・イラク戦争が停戦し、ソ連軍のアフガニスタン撤退が開始されるなど、世界が平和に向けて歩み出した年でした。そうしたなかで、竹下首相は、二月に盧泰愚大統領就任式出席のために韓国を訪問、四月に英国をはじめ西欧四ヵ国を訪問、五月に国連軍縮特別総会出席のために訪米、並びに欧州四ヵ国とECを訪問、六月にはトロント・サミット出席のためにカナダを訪問、七月に豪州二百年祭記念行事出席、八月には日中平和友好条約締結十周年にちなんで中国を訪問、さらに九月にはソウル・オリンピック開会式出席のため訪韓など、たてつづけに外交日程をこなしました。首相のこの一年間の外遊は、述べ五十九日間、九回におよんでいます。

こうしたなかで、竹下首相は、わが国の外交姿勢について、「平和のための協力の推進」と「国際文化交流の強化」と「政府開発援助(ODA)の拡充強化」という三つの柱からなる「国際協力構想」を打ち出しました。首相は、今後の国際社会の発展にとって各国間の相互理解の促進がとくに重要と考えており、わが国が文化交流という面からこれに力を入れる決意を示したことは、新たな視野を開くものでした。

しかし、国際経済面におけるわが国の影響力の増大にともなって、各国の日本に対する市場開放や開発途上国援助についての要請は急速に高まりました。なかでも、農産物輸入自由化、公共工事への外国企業参入問題等は、わが国の産業経済に大きな影響を与えるものであり、政府は対応に苦慮しました。前年に起こった日本企業のココム違反事件等が対日批判に拍車をかけたことも否定できません。

国内政策面で最も努力が払われたのは、税制改革の推進です。自由民主党が六月に決定した「税制の抜本改革大綱」の主な内容は、(1)所得税、住民税等の引き下げ、(2)法人税の引き下げ、(3)相続税の引き下げ、(4)資産課税の適正化、(5)間接税の改組・見直しと消費税(税率三パーセント)の創設からなっており、サラリーマン中堅層に対する思い切った減税と新税創設の組み合わせでした。「大綱」の決定をうけて、自由民主党の中央・地方各組織は、国民各界各層の理解と協力を得るため、広報宣伝、研修会、講演会等の幅広い活動を展開しました。九月からは、竹下総裁自らが全国各地で税制改革懇談会、いわゆる「辻立ち」を行い、国民に税制改革の必要性を訴えたのです。

国会には、七月の百十三回臨時国会に、「税制改革六法案」が提出されましたが、折からリクルート問題が浮上したため、野党は証人喚問等を強く要求し、この問題の解明が行われない以上審議には応じられないと、態度を硬化させました。自由民主党は、リクルート問題と税制審議は切り離して行い、国民の理解を得るために与野党で話し合いを深めるべきだと主張しましたが、野党はこれを受け入れず、議事妨害や採決の欠席などの行為を重ねたので、国会は何度も空転し、実質的な審議はほとんどできませんでした。国会は、二度延長され、会期は十二月二十八日まで百六十三日にわたりましたが、これは臨時国会としては、史上空前の最長国会です。

結局、衆議院予算委員会で、野党欠席のまま税制改革六法案の自由民主党単独採決のやむなきにいたり、本会議では修正問題で公明、民社との合意が見られたため、社共欠席のみで可決されました。社共等の反対勢力は、参議院でも内閣不信任案や議運委員長解任決議案や各種問責決議案、さらには牛歩戦術などで抵抗しましたが、自由民主党は賛成多数でこれを成立させました。

シャウプ税制以来、実に三十八年、自由民主党が大平内閣以来、十余年の歳月をかけて全力を投じた抜本的税制改革がついに断行されたのです。この間、野党諸党が審議に応ずることなく、国民の税制に対する理解を妨げたことは、議会民主主義政治に背くものとして誠に遺憾であり、強く非難せざるをえません。

昭和六十三年は、国政レベルの選挙として大阪、佐賀、福島の参議院議員補欠選挙があり、大阪では敗れたものの、その他の二つでは勝利しました。特に福島での圧倒的な勝利は、その後の税制改革関連法案成立に向けて、大きな弾みをつけることになりました。また十県で行われた知事選挙では、一県を除いて、すべて自由民主党系候補が当選し、百二十九市の市長選挙でも、実に百二十四市において勝利をおさめました。この背景には、この年八月末の集計で、党員数が四百九十九万八千八百二十九名、党友数が七十七万八千百二十七名に達するほどの党勢拡大の努力がありました。これは過去最高をはるかに上回り、全国有権者数の五・六二パーセントに達しています。

昭和六十四年が明けて間もなくの一月七日、日本全国民を深い悲しみが襲いました。前年秋から病いに伏されていた天皇陛下が崩御されたのです。すでに暮のうちからご容態が悪化していることが報じられ、国民は、日夜ご平癒を祈願しておりましたが、その願いも空しくなりました。故天皇陛下は、昭和元年のご即位以来、六十二年の長きにわたって在位され、常に国民の心の支柱になってこられ、この間、わが国が直面した内外の危機に当たって、はかり知れないご努力を尽くされました。この陛下のみ心こそ、戦後わが国民が祖国再建に立ち上がった力の源と言って過言ではありません。自由民主党は、全党を上げて心からの弔意を表し、陛下の安らかなお眠りを祈りました。

天皇陛下崩御に伴い、皇太子明仁親王殿下が皇位をご継承になり、元号も「平成」と改められました。自由民主党は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である新天皇陛下のみ心を体し、わが国および世界の平和と繁栄のため、全力を傾けることを誓いました。

昭和天皇大喪の礼は二月二十四日、百六十四ヵ国、二十八国際機関の代表を含め約九千八百人参列のもとに、古式に則って執り行われました。

このようにしてはじまった平成元年は、自由民主党にとってきわめて厳しい年となりました。この年は、夏に重大な参議院選挙を控えていたにもかかわらず、前年来のリクルート事件の火の手がいっそう広がり、閣僚や政府高官、自由民主党の幹部や重要人物が関与していたことがわかって、国民の政治不信が一気に高まりました。この事件は野党幹部まで巻きこむにいたりましたが、政権政党である自由民主党に批判が集中したのは当然と言えます。しかも、税制改革関係法案の成立が前年の暮ぎりぎりまでかかったため、平成元年度予算の編成が遅れ、百十四回通常国会の再開は二月にずれこんで、予算が年度内に成立することは困難と見られました。国会は重要人物に対する野党の証人喚問要求でしばしば空転し、予算審議は遅々として進みませんでした。この間に行われた参議院福岡選挙区補欠選挙で、自由民主党候補が社会党候補に大敗したことは有権者の動向を示したものと言えます。

問題の深刻さを憂えていた竹下総裁は、すでに前年のうちに、党執行部に対して政治改革の具体策づくりを指示し、これを受けて党内に設置された「政治改革委員会」は、税制改革に続く新たな政治目標として抜本的な政治改革への取り組みを開始しました。この委員会は、党内外の意見を広く聴取して、「金のかからない選挙制度の実現」、「政治資金規正法の再検討」、「衆議院の定数是正」などを柱とする改革に乗り出し、三月には「政治改革大綱答申案」の起草委員会を設けて、答申の作成に取りかかりました。また、竹下首相は、これと並んで、首相の私的諮問機関として「政治改革に関する有識者会議」を設置し、五~六月までに一応の考え方を示すことを要請しました。

首相は、通常国会冒頭の施政方針演説で、政治改革を「内閣にとって最優先の課題である」と位置づけ、政治不信の解消に取り組みましたが、党内にも強い危機感があふれ、政治の浄化を目ざす各種のグループが結成されて、さまざまな発言や提言を行いました。

こうした努力にもかかわらず、リクルート問題はついに党中枢を襲うにいたり、四月二十五日、竹下首相は、政治不信の責任を取って、退陣の意思を表明しました。この直後、予算はなんとか衆議院を通過したものの、もはや参議院選挙は目前であり、通常の手続きで後継総裁を選出できないことは明らかでした。このため、後継問題は党四役に一任されましたが、以後、六月二日の党大会に代わる両院議員総会で宇野宗佑外相が後継に決定するまでの過程は、全党にとって苦しみに満ちたものとなりました。

しかし、その間にも急がなければならなかったのは、国民に対する政治改革の姿勢の明確化です。四月末の「政治改革に関する有識者会議」の提言に次いで、五月下旬には、党政治改革委員会が、政治倫理に貫かれた公正、公明な政治の実現と現行中選挙区制の抜本改革を柱とする「政治改革大綱」を決定しました。また、続いて自由民主党は、党所属議員が起訴された事実を厳粛に受けとめて、「リクルート問題に関するわが党の措置」を決め、この問題に関係する議員に、司法上の責任の有無にかかわりなく、良識にもとづいて自ら対処することを求めたのです。

こうして、志半ばに終わった竹下政権でしたが、その最大の功績は、長年の懸案であった直間比率の是正を中心とする税制の抜本的改革を成し遂げたことでした。これが日本の将来にとってはかりしれない大きな意義を持つことは言うまでもありません。また、竹下首相は、"ふるさと創生"を称え、地方の活性化に力を尽くし、自主的な地域づくりを支援するため、全市町村に一律一億円の地方交付税を配分しました。今日これがさまざまの効果を上げつつあることは、国民のよく知るところです。さらに、竹下首相は、国際社会の要請にこたえて、「国際協力構想」を打ち出し、退陣の意思の表明後も、アセアン五ヵ国を訪問するなど、その誠実な実践につとめました。昭和から平成への転換のなかで、竹下政権は時代の課した役割を十分に果たしたと言うことができます。