昭和31年4月5日~昭和31年12月14日

鳩山一郎総裁時代

民主・自由両党の合同による新党結成から約四カ月間、自由民主党は、総裁代行委員制のもとで地方の党組織の確立に全力をあげ、都道府県支部連合会の結成を完了したので、昭和三十一年四月五日、第二回臨時党大会を開いて、国会議員に地方代議員を加えた総裁選挙を行い、初代総裁に鳩山一郎氏を選出しました。

これを契機として、大衆政治家としての鳩山新総裁と、自由民主党に対する国民の期待の高まりは、まさに爆発的なものになりました。同年七月の参議院選挙では、このような国民的人気を背景に、鳩山首相は、不自由な身体をおして全国遊説し、「友愛精神」の政治理念と、日ソ国交回復、独立体制の整備、経済自立の達成などの政策目標を訴えて、いわゆる"鳩山ブーム"をまき起こしました。その結果、自由民主党は、非公認当選者を加えて全国区、地方区合計で六十四議席を獲得、社会党を圧倒したのでした。

また政策面でも、鳩山内閣は、独立体制整備と経済自立の達成をめざして、「憲法調査会法」「国防会議構成法」「新教育委員会法」「日本道路公団法」「科学技術庁設置法」「首都圏整備法」「新市町村建設促進法」等の立法化を行い、内政面でのめざましい充実をはかったほか、外交的にも、フィリピンとの賠償協定を締結して戦後処理をさらに一歩前進させました。

しかし、鳩山内閣時代の不滅の業績は、何といっても、戦後の長い外交懸案だった日ソ国交の正常化であったのです。

この問題解決を政権担当いらいの悲願としてきた鳩山首相は、同年十月、自ら病躯をおしてモスクワを訪問し、陣頭指揮で交渉に当たりました。日ソ交渉は、南千島の領土権をめぐって難航を続けましたが、同月十九日、ついに「日ソ国交回復に関する日ソ共同宣言」「貿易発展、最恵国待遇相互供与議定書」の調印をみるにいたったのです。

これはまさに、吉田内閣時代における平和条約と日米安保条約の締結に並ぶ、戦後日本外交史上の二大イベントの一つであり、身命を賭してこの歴史的偉業を達成した鳩山首相の功績は、戦後の日本政治史に不朽の事績として刻みこまれることでしょう。また同年十二月、わが国の国連加盟が実現したことも、鳩山時代を飾る輝かしい外交的成果でした。

しかも、政治生命を賭けた「保守合同」と、「日ソ国交回復」の二大宿願を果たした鳩山首相は、心中深く期するところがあり、日ソ交渉を終えて帰国後ただちに、総理・総裁引退の声明を発表したのです。そして同年十二月の第二十五回臨時国会で、日ソ共同宣言など四議案が承認され、批准書を交換して正式に国交が回復されるのを待って、たんたんとして政権の座を去ったのでした。