昭和35年7月14日~昭和39年12月1日

池田勇人総裁時代

岸内閣退陣のあとをうけて、昭和三十五年七月十四日、池田勇人氏が第四代総裁に選ばれ、新しく池田内閣が登場しました。この内閣の出現とともに、世界の歴史にも類例をみない「経済的繁栄の時代」が幕をあけたのでした。

池田内閣時代を特色づけるものは、政治的には、「寛容と忍耐」の精神にもとづく"話し合いの政治"と"党近代化"であり、政策的には、「所得倍増計画」に象徴される輝かしい高度経済成長政策の積極的な推進と、国際的な開放経済体制への移行でありました。

まず政治運営の面でみますと、池田首相は、安保騒動によって国内的には社会不安が生起し、また対外的にも、国際信用のうえに影響するところ少なくなかったことを反省し、政治の基本姿勢を「寛容と忍耐」におき、つとめて野党との話し合いによる円滑な議会運営に徹しました。この結果、池田内閣時代の四年三カ月は、与野党対決といった局面はあまりなく、政局がきわめて安定した時代でした。

しかもその間、国内的には豊富で質の高い労働力とすぐれた技術革新、国際的には廉価で安定的な資源供給に恵まれ、国民のバイタリティーは内外にあふれて、まさに「黄金の六〇年代」にふさわしい時代環境だったのです。池田内閣および自由民主党は、これらの客観条件を的確にとらえて、高度経済成長に向かって効果的に施策を展開したのでした。

すなわち、「国民所得倍増計画」は、岸内閣時代の新長期経済計画よりさらに長期的展望のもとに、国民総生産を十年間で二倍以上、国民の生活水準を西欧先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、これによって国民多年の宿願であった完全雇用を達成するだけでなく、国民各層間の所得格差の是正をはかることをめざした、きわめて意欲的なものでした。

さらに(1)減税、(2)社会保障、(3)公共投資を三本柱として経済成長を推進した結果、民間経済の潜在的エネルギーをたくみにひき出して、"世界の奇跡"といわれる高度の経済成長をとげました。

つまり、同計画では、当初の三年間は年率九パーセントの成長を想定していたのに、現実には一〇パーセント以上という予想を上回る大幅な成長をとげ、国民所得は十年間で倍増する想定だったのに、わずか四年余で目標を達成するというめざましい成長だったのです。

この結果、国民生活は豊かになり、民心は安定し、岸内閣時代のような険しい政治的対決といった様相は、まったく姿を消しました。このような政治的安定と政策的成功を背景に、自由民主党に対する国民の支持は高まり、三十五年十一月の総選挙では、繰り上げ当選者を加えると三百一議席という戦後最高の議席を獲得し、三十七年七月の参議院議員選挙でも、全国区二十一、地方区四十八の合計六十九議席という圧倒的勝利を得たのです。

衆・参両院にわたるこうした強力な布陣を背景に、内政、外交の両面で、池田内閣は輝かしい業績をあげました。

まず内政面では、高度成長の基盤のうえに、国および地方の財政は大幅に拡大し、一方で年々大幅な減税を続けながら、他方では各種の重要政策の積極的推進を可能にしたのが、その基本的な特徴です。

経済関係では、「農業基本法」「中小企業基本法」「沿岸漁業振興法」「林業基本法」の歴史的な四大産業基本法を制定して、農林漁業政策と中小企業対策の進路と施策の基本を確立しました。また、「新河川法」「新産業都市建設促進法」その他の重要立法を行って、国土の開発保全と地域格差の是正をはかりましたし、民生安定および文教振興の面でも、「児童扶養手当法」「老人福祉法」「母子福祉法」「義務教育諸学校教科書無償措置法」の制定、「国民皆保険」の実現など、めざましい成果をあげたのです。

さらに外交面では、三十六年から三年間にわたり、毎年、欧米諸国および東南アジア各国を歴訪し、ケネディ米大統領をはじめ各国首脳と会談し、相互理解と親善友好関係の増進に貢献しました。また三十六年には、東京で韓国の朴最高会議議長と会談し、日韓国交正常化の早期妥結への道を開いたことも見逃せません。

しかし、池田内閣時代の国際経済政策で画期的な意義をもつのは、開放経済体制への大胆な移行です。日本経済は戦後長い間、国内産業の保護育成のため、貿易為替管理制度によって国際自由貿易の荒波をさけてきたのですが、反面それは、わが国産業の国際競争力の成長を弱め、自由貿易の増進を妨げ、わが国経済のより大きな発展を阻害する要因ともなっていたのでした。

そこで岸内閣当時、四二パーセントにすぎなかった自由化率を、三十九年には九三パーセントにまで高めるとともに、為替制限の廃止と差別的な通貨措置の撤廃をうけいれたIMF(国際通貨基金)八条国への移行と、OECD(経済協力開発機構)加盟を断行し、ほぼ完全な開放経済体制に入ったのです。これは国際的な自由貿易体制への積極的な参加と、その後の日本経済の飛躍的な拡大のために、まさに歴史的な決断だったのです。そうした努力の成果として、三十九年九月には、世界百二カ国代表の参加のもとに、IMFおよび世界銀行の年次総会が、東京で開かれたことも特筆すべきことでした。

しかし、何といっても池田内閣時代の最大の国際的イベントは、三十九年十月、東京で開催された、アジアで初の第十八回オリンピック東京大会だったでしょう。参加国九十四カ国、参加選手五千五百八十六名を数え、施設、運営にわたってわが国の技術と能力を最高度に発揮し、世界に類を見ない奇跡の経済復興を外国に知らしめ日本の威信を著しく高めました。またこれを機会に、首都高速道路網、地下鉄網の建設整備、水源の確保、都市施設、生活環境施設の整備等、首都東京の根本的大改造や、東海道新幹線が建設されたことなどをあわせ考えると、このオリンピックの成功こそは、池田内閣の高度経済成長政策による経済的繁栄を、何よりもあざやかに象徴する世紀の大祭典だったといえるでしょう。

その一方で、党近代化へのさまざまな努力を続けたことも、池田内閣時代の一つの特色です。近代的な国民政党をめざす「党組織調査会」の設置、党組織と財政の母体となるべき「財団法人・国民協会」の結成などがそれで、三十七年十月の三木武夫氏を会長とする組織調査会による「党近代化に関する最終答申」は、これらの努力を示す貴重な成果でした。

こうして内外政治にわたって、輝かしい功績をあげ、自由民主党政治の歴史的な発展に貢献した池田内閣でしたが、三十九年十月、不幸にして池田首相は病魔におかされるところとなり、オリンピック史上、空前の盛大な大会といわれた「東京オリンピック」の華やかな閉会式の翌二十五日、その最後をかざるにふさわしい、さわやかな「退陣声明」を残して幕をおろしたのでした。